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夢職ひきこもりトレーダーの日々

40歳で鬱で職を失い、トレードで生活費を稼いでいます。夢職です。部屋にひきこもるのが大好きです。酒場巡りをライフワークとするアル中予備軍。無業期間が長くなりすぎ、再就職はあきらめました。

私の生きづらさについて ~発達障害のこと~ その5  

■対人関係について

自閉症スペクトラムでは、社会性、コミュニケーション、想像力の3領域に障害が
みられると言われています。

私の場合、軽度と言われていて大きな問題があったようには思えませんが、
それでも今振り返ると、人付き合いが苦手で、
普通の人とは少し違うところがあったように思えます。



【中学時代】

最近、中学時代の担任の先生とよく会うようになりました。
先生曰く、「中学時代の私の記憶は殆ど無い。
もっと気に掛けてあげれば良かった」だそうです。

中学時代、私のクラスはとても仲が良くて、
みんなでまとまって遊んでいたりしました。
でも私は、そういった輪の中に入れませんでした。

虐められていた訳ではありません。
誘われた記憶もあります。

ただ私は、大人数のコミュニティーに入るということが
とても苦手だったのです。


【高校】

高校に進学してからも同じような感じでした。
高校ではクラス全体が仲良くといった雰囲気はありませんでしたが、
それでも、小さな仲良しグループというのはいくつかありました。

私はそのグループのいずれにも入ることは無く、
一人でポツンといる感じでした。
だから、修学旅行などの班分けでは
仲の良い友人がいないので苦労した記憶があります。

それでも当時は高校生でありながら、
パチンコ、競馬、麻雀が好きだったので、
それを通じて付き合いのあった友人は沢山いました。

これは今の友人にも通じる所があり、
現在、頻繁に連絡を取り合っている友人の8割は、株友達と言えます。


【大学】

大学に入ってからは、殆どが選択授業だったこともあり、
クラスのコミュニティーというのは無くなり、
居心地が良くなった気がします。

アルバイトを始めて、初めて気の合う友達ができたのもこの頃でした。
私にとっては、中学や高校の40人のクラスメイトと
1日の大半を過ごさなくてはならないことが苦痛だったと思います。

一言で言えば、集団生活が苦手だったのでしょう。


【現在】

集団の中に見を置くことが苦手なのは、今でも変わりません。
例えば、同窓会、クラス会、株のオフ会など、
大人数での集まりには行きたくありません。
逆に、気の合った仲間と少人数で会うことは大歓迎です。

仕事を辞めて無職となった今では、
それ程困ったと感じることは無くなりました。
気の合う人とだけ付き合えるからです。


あとは、仕事のこと、まとめを書いて終わります。
その6に続く
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category: 精神病院での入院生活

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私の生きづらさについて ~発達障害のこと~ その3  

■結婚生活

妻とは学生時代に知り合って、交際して5年で結婚しました。
付き合っていた当時は特に問題なかったと思いますが、
私は数字への拘りがあって、特に時間に関しては妻にだいぶ嫌な思いをさせたと思っています。
(今は意識して人を巻き込まないよにしています)

待ち合わせ時間に、妻が少し遅れたことで大喧嘩した記憶があります。
今思うと、よく一緒になる気になったと思います。


結婚後、妻は私が普通の人とは何かが違う事に気が付いていたようでした。
付き合っていた頃は、一緒にいる時間に限りがありますが、
結婚すれば常に日常を共にします。
おかしな考え、行動は否が応にも見えてきます。

後に聞いた話では、妻は結婚して3年目におかしさは感じていたと。
しかし、そのことを私に指摘しても私は否定し、喧嘩になることは目に見えていたので
言わなかったそうです。

とにかく、色々なことに拘りが強く、常に自分の考えが正しく、
私と異なる考えであっても価値観の違いと言って、他人(妻子)の考えを受け入れない。
そういうこともあって、2~3ヵ月に一度は大きな夫婦喧嘩をしていました。

私は弁が立つので、妻を理詰めで追い込んでいき、
どうにもならなくなった妻が、物に当たり壊す。
(当時の事は、思い出しただけでも胸が痛みます)

離婚して欲しいと言われたことも数度あったり、
夜中に家を飛び出して行くこともありました。
それでも、自分が常に正しく、間違っているのは妻だと信じて疑いませんでした。


発達障害の事を知って、初めて自分が間違っていたことに気が付きました。
今では、自分の心無い言動で、妻や子供たちを苦しめてしまったことを深く後悔しています。
しかし、その当時は、自分の異常さに気が付かなかったのです。


■数字への拘り

私の拘りの対象は数字になります。
私は手帳に日常生活のメモを付けているのですが、
人と待ち合わせしている時間のみならず、
家を出た時間や帰ってきた時間など、事細かにメモしています。
その日の最高気温もメモしています。
私の手帳は、数字だらけです。
おそらく、こういう人は他にはあまりいないと思います。


一方、数字への拘りが強いが故、
トレーダーとして生きてこれた面もあると思います。

トレードは、株価、出来高、会社の業績、
殆どのものが数字で表され、それを判断して売買します。
もしかしたら、この拘りが役に立っているのかもしれません。

数字を見ているのはとても楽しく、
高校時代の数学の成績だけはズバ抜けていて、
テストの成績は、常にクラスでは3位以内でした。
(他の教科の成績は、平均~平均以下と冴えず)

今は1日相場に張り付くことは無くなりましたが、
フルにやっていた時には、100銘柄程度であれば、
コード番号や大まかな株価は諳んじることができました。
別に覚えようと意識したのではなく、自然と頭に入って来る感じでした。


その4に続く

category: 精神病院での入院生活

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私の生きづらさについて ~発達障害のこと~ その2  

■発達障害

発達障害にも色々とあります。
注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)、自閉症、アスペルガー症候群
その中で、私は高機能自閉症の可能性があると言われました。
可能性があるというのは、その病院には発達障害の専門医がおらず、確定診断できないので、
専門医のいる病院へ行って欲しいとのことでした。

自閉症は、社会性、コミュニケーション、想像力の3領域に障害が見られ、
言葉の発達が極端に遅かったり、特手のものに異常な興味をしめしたりします。
そして、その多くは知的障害を伴います。
高機能自閉症というのは、自閉症のなかで知的障害を伴わないものを指します。


主治医から、「高機能自閉症」と言われたときは、全くぴんときませんでした。
発達障害、自閉症という言葉は聞いたことがありましたが、
自分とはおおよそ無縁の世界のことだと思っていたからです。

私の場合、軽度だったので、社会性やコミュニケーションも
社会生活を送るうえで大きな障害があった訳ではなく、
学校生活、会社員生活、結婚生活を送ってこれたようです。

しかし、それでも普通の人とは何かが違うので
大きなストレスを感じていたようです。


退院後、発達障害に関する本を読むと、
自分にあてはまることが沢山あって、びっくりしました。

私がこれまで普通の人と同じ社会生活を送ることが、
辛く感じていた原因がわかり、ストンと腑に落ちた感じがしました。
「そういうことだったのか」と。

発達障害と告げられて、ショックを受ける人もいるとも言われますが、
私の場合、今までの生きづらさの原因が分かってスッキリとした気分でした。
しかし、これが脳の機能不全であり、一生治ることは無く、
このまま、この辛さと向き合っていかなくてはならないとう不安感もありました。



■確定診断

3ヵ月間入院した精神病院を退院した後、病院から紹介された
東京都発達障害者支援センター(TOSCA)へ相談に行きました。
ここは、東京都から委託された発達障害に関する相談が無料でできる相談施設です。
(各自治体に発達障害情報・支援センターはあります)

ここで、発達障害の確定診断を受けた方が良いのかを相談をしました。
大人で発達障害を疑われる人は多く、それに対して確定診断をできる医療機関は限られているので、
診察を受けるまでとても時間がかかるようでした。(予約が数ヵ月待ちとか)

確定診断を受けるメリットは、精神障害者保健福祉手帳を受け取れることにあります。
この手帳があると、再就職活動において、障害者枠での雇用を期待できるとのことでした。


当時の私は、ハローワークなどで再就職活動をしていましたが、
障害者枠を使ってまで、再就職活動はしたくないと思っていました。

それは、これまで苦しいながらも社会人生活を送ってこれたのだから、
何とか普通の人と同じように仕事をしたいという気持ちが強かったからです。
それは、自分のプライドからなのか、障害者という言葉に対する抵抗感からなのか。
心のどこかで、自分は健常者であるという意識を拭い切れない部分がありました。


結局、再就職活動では十数社応募して面接の機会を与えられたのは1社のみで全て不採用。
そのうち、趣味のトレードで収入を得られるようになったので、
再就職活動は止めてしまいました。

しかし、たまたまトレードで稼げるようになったので再就職活動は止めましたが、
生活費が稼げなければ、何かしらの仕事をしなくてはならず、
障害者手帳を得るために、確定診断を受けに行ったと思います。


その3につづく

category: 精神病院での入院生活

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私の生きづらさについて ~発達障害のこと~ その1  

しばらくは私の発達障害のことを書こうと思います。
いずれは書こうと思っていましたが、なかなか書く機会がなかったので。

最近、この発達障害に起因する聴覚過敏で、精神状況があまり良くありません。
(後に詳細を書きますが、こんな感じです 聴覚過敏「音」で極端に疲れる
ブログを書いていなかったのはこのせいもあります。


■精神病院で告げられたこと

 16年間の会社員生活を送ってきましたが、
 会社員生活になじめず、1年目からストレスで十二指腸潰瘍を患い2年目で入院。
 30歳からは欝を患い、精神薬を飲みながら仕事を仕事を続けました。
 40歳で休職し、精神病院に入院。その後、退職することに。

 16年の会社員生活は本当に辛かったです。
 かといって、私の勤めていた会社がブラック企業だったかというと、
 そんなことは無かったと思います。
 一緒に働いていた同僚や上司もとてもいい人でした。

 仕事を続けられなかったのは、会社に問題があったからでは無く
 私自身に問題が有ったことが後に分かりました。


 休職中に精神病院に入院しましたが、
 退職後も仕事を失った絶望感から脱することができず、
 鬱状態が酷く2度目の入院をすることになりました。

 2度目に入院した病院は、休職中に入院したのは別の病院で
 主治医も変わりました。

 その病院で主治医に言われたことは、
 私は軽度の発達障害であり、その二次障害として鬱を発症しているのではないかと。
 軽度というのは、障害がありながらも、なんとか社会で自立して生活できている
 ということだったと思います。



■なぜ、主治医が私の発達障害を疑ったのか?

 私は入院当初、希死念慮が強く閉鎖病棟に入院していました。
 その後、1ヵ月ほどで症状が良くなり、解放病棟に移ることになります。

 しかし、閉鎖病棟で慣れた環境、人間関係を
 解放病棟へ移ることで、また初めから構築することにとてもストレスを感じ、
 主治医に「元の閉鎖病棟に戻して欲しい」と直訴しました。


 閉鎖病棟は自由が全くありません。
 散歩や売店の買い物も、決められた時間に職員同伴で行かなくてはなりません。
 お風呂も監視の元、決められた時間に大きなお風呂にみんなつかります。

 そんな不自由である閉鎖病棟に、自ら進んで戻りたいという患者を
 その主治医は初めて見たと言っていました。

 発達障害の特徴として、変化を嫌うということがあるらしいです。
 自分の居心地の良いと思う場所に固執する。
 主治医はそこで、私のおかしさに気付いたようです。

 その後、色々な検査を受けて
 (知能検査、おそらくWAIS-IIIを受けたり、絵を書かされたり)
 その疑いがあると診断されました。

その2につづく

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精神病院に入院していた時の話 その8  

私の入院していた病棟は、鬱の人、不眠の人が多かった。
それでも、週に何回か、誰かしらが大暴れして、騒ぎになっていた。
暴れるのは女性が多かった。

入院していた病棟では
無職の人、生活保護を受けている人が、かなりの割合でいた。

今まで、私が生きてきた中では
普通に会社員をしている人が殆どだったので、
同じ境遇の無職の人がここまでいるとは思わなかった。

それに、人と比較するのは好きでは無いけど、
まだ、私は働こうと思えば働けると思った。
鬱で寝た切りの人もいたし、
Cさんみたいに、20年もの間、精神病院に閉じ込められている訳でも無い。
Dさんのように、薬物中毒でも無い。
正社員とかを考えたらダメかもしれないけど、
パートとかアルバイトだったら働けるかもしれないと思えた。
退職して、無職になってから初めて前向きな気持ちになれた。

それから、急に気持ちが楽になり、死にたいという気持ちが日に日に薄れていった。
9月に入り、仕事をしたいと考えるようになった。
そして、9月の下旬に退院した。

10月に入り、ハローワークへ行った。
そして、仕事を探し始めた。

これで、精神病院に入院していた話は終わり。


仕事は相変わらず見つかっていないけど、
無職であること、仕事をしていないことを自分なりに受け入れられるようになった。

それと、仕事をしていなくても、何とか生活はできるという感触が得られた。
妻もパートで働いているし、
家計が苦しくなれば、生活のレベルを下げれば良い。
拘らなければ、何かしら仕事は見つかるのではないかという、淡い期待もある。
「なんとかなる」この気持ちを得られたのが良かった。

また、明日から
無理をしない程度に、トレードと職探しを始めようと思います。

精神病院に入院していた時の話(完)

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精神病院に入院していた時の話 その7  

病院で知り合った患者さんの話。

病室は別だったけど

Dさん
20代後半で、この人も何で入院しているか分からないけど、
もしかしたら、薬物中毒での入院かもしれない。
覚醒剤の経験があり、未成年の時に、施設に入っていたと言っていた。
精神薬も凄い量を飲んでいた。
頓服の薬もしょっちゅう飲んでいて、
ナースステーションに行っては、レボトミン下さい!、リスパダール下さい!って
いつも薬を飲んでいた。頓服を飲み過ぎて、今日はこれ以上は出せまんと看護士さんに言われていた。
仕事は制作会社でADをしていたけど、今は無職で生活保護を受けていると言っていた。

Eさん
30代前半。無職。発達障害と言っていた。
自分の話を始めると、止まらなくなり、会話はいつも一方通行。
お父さんは亡くなっていて、お母さんと2人暮らし。
自宅の住んでいるマンションで暴れて、器物を破損して、手を付けられず強制入院となったらしい。
いつも興奮状態で、誰かしらを捕まえては際限なく話を始める。
興奮が酷いと、看護士さんに薬を飲まされて、鎮静させられ、昼からずっと寝ていた。
起きると、「酷い薬を飲まされた」と怒っている。
電話も朝から親戚の人とかに掛けて、長時間話している。
親戚の人も朝の忙しい時に迷惑だろうな。
あと、お母さんとの電話で、良く怒鳴っていて、廊下中に声が響き渡っていた。
電話は10分までと、先生に決められているらしく、
長電話が酷い時は、看護士さんに注意されていた。


今回紹介したのは全て男性。
その他にも、沢山の人と知り合ったけど
一人ひとり書くと大変なので、これぐらいで。

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精神病院に入院していた時の話 その6  

病院で知り合った患者さんの話。

同室は3人いた。

Aさん
鬱で入院。40代前半。無職。
Aさんとは歳も同じで、話しているうちにお互い無職と言う事もあり気があった。
元々はタクシードライバーをしていて、勤務成績が優秀でハイヤーの運転手になったそうだ。
そこで、不規則な生活から鬱になり、退職。
その後、ハローワークで職業訓練を受けて介護職に就くが、
仕事が激務で、鬱になって直ぐに退職し、現在の無職に至っている。

Bさん
不眠で入院。50代前半。タクシードライバー。
Bさんは薬嫌いらしく、入院中も一切、不眠薬の服用を拒否し続けていた。
私が入院した後、1週間で退院していったが、とても几帳面で真面目そうな人だった。
ここ最近、タクシーの売り上げが減ってきて、売り上げを上げるために無理をして働いたら
不眠になったらしい。
タクシードライバーって、生活が不規則だから大変だなと思った。

Cさん
60代前半。
もう20年精神病院で入院生活を送っているベテラン。
何で入院しているのかは分からないけど、飲んでいる薬は鬱の薬。
実家は中小企業を経営していて、かなり裕福な家庭の人。
Cさん自身、貯金は1億以上あるそうだ。
おやつはいつも豪快に買っていた。
ヘビースモーカー。
電子部品を製造している会社は、長男が後を継いで、会社は順調なようだ。
私が無職で求職中と言ったら、会社を紹介してくれると言われた。
お兄さんは、時々面会に来ていた。
でも、40過ぎから20年も精神科に入院していて、何とも思わないのか不思議だ。
病院から出たいと思わないのだろうか?
話をしていても、普通のおじさん。若い頃は派手に遊んでいた感じ。
病気とは思えないし、何で、ここに入院しているの?と思ってしまう。

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精神病院に入院していた時の話 その5  

入院生活

朝6:30に起床して、消灯は21:00だったかな。
もう忘れてしまった。

楽しみは3度の食事と、15:00からのおやつの時間だけ。
あとはひたすら暇で、いかに時間を潰すかだった。

私は運動不足を解消するため、
病棟の長い廊下をひたすら歩き回っていた。


食事
本当に酷かった。
量がとにかく少ない。
まあ、閉鎖病棟で動いていないので、それで良いと言えば良いのかもしれないけど。
常に空腹感があって、病室でおやつを隠れて食べていた。
肉も出るのだが、鶏肉か豚肉で、異様に小さかった。
今の食生活からは考えられないが、それでも食事は楽しみだった。

おやつ
病院1Fの売店に、3人の看護士さんに付き添ってもらい集団で買いに行った。
逃げ出す人はいないけど、一応、閉鎖病棟なので。
買い物の許可が出ていない人もいて、その人は、看護士さんに買いたいものを頼んで、
買って貰ってきていた。
チョコレート、せんべい、スナック菓子、アイス、ジュースなどを買った。
お金の管理はできず、事前に家族が病院の事務に振り込んで、カードを使って買い物をした。

作業療法
調子が良くなってから、週に何度か、午前中に2時間ぐらい作業療法があった。
塗り絵をしたり、オセロなどのゲームをしたり、アイロンビーズをしたり。
子供の遊びのような事をしていたが、
病棟で、暇をもてあましていたので、やることがあるだけましだった。

TV
食堂に2台あるだけで、譲りあって見ていた。
一般の内科や外科病棟のように、病室のベッドには無い。
高校野球が好きなおじさんがいて、その人は東京都の予選大会~甲子園の決勝戦まで、
高校野球が開催中はずっとTVにへばり付いていた。

談話コーナー
ソファーのある談話コーナーが1ヶ所、喫煙所が1ヶ所あり、
暇な時はそこへ行くと、誰かしら話し相手になってくれた。
でも、飽きてくる。
隔離された閉鎖病棟に毎日にいるので、話すネタなんてすぐに尽きてくる。
16:00を過ぎると、やっと1日が終わりますねと、患者さん同士で話題になるが、
ここから18:00の夕食までの2時間が鬼の様に長かったりする。

とにかく、毎日、毎日暇だったが、
あっと言う間に、入院期間は終わってしまった。

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精神病院に入院していた時の話 その4  

入院初日
これからこの病院でどうなって行くのだろうかと不安感が一杯だった。
しかし、そんな不安も杞憂に終わる。
入院2~3日で一気に気持ちが楽なった。

まず、入院することで死ぬ事を考えなくて済んだ。
閉鎖病棟では、死ぬ事はできない。
諦めの境地だ。

それと、仕事の事、将来の事を考えなくなった。
閉鎖病棟の時間の流れはゆるやかで。非日常の世界だった。
世間一般とは隔離されていて、世の中の人が働いている事すら忘れてしまう。

自宅にいた時は、外出すると、嫌でも会社員の人を見かけ、
自分が働いていない事、無職である事に対して、強烈な劣等感を感じていた。
しかし、閉鎖病棟では、そんな働いているい人の事を知る由も無い。
とにかく、無の境地になれた。


それに加え、色々な患者さんと出会えて、話をできたのも大きなプラスだった。
知り合った患者さんの事を書くと長くなるので、今回は割愛するが(次回書きます)
無職で苦しんでいるのは自分だけではないと気付いた。

入院の目的は、薬の調整だったが、
入院して数日で、気持ち的にだいぶ楽になったので、
先生と相談して、薬はそのままで様子を見る事になった。
むしろ、ジプレキサなどは飲み過ぎだそうで、薬の量を減らされた。

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精神病院に入院していた時の話 その3  

7月上旬
入院施設のある精神病院へ行った。
病院は東京の外れの、山の奥にあった。
逃げだすにも、逃げだせない環境だ。

初回は診察のみ。
今まで掛っていた精神科の紹介状を持って行き、診察を受けた。
主治医は30代後半ぐらい。
可もなく不可もなくと言った印象。

私はすぐにでも入院したかったが、入院施設は満床で空きがなく、
入院可能な日にちの連絡を待つことになった。


7月中旬
入院。
精神科には閉鎖病棟と開放病棟がある。
私は希死念慮が強かったので、閉鎖病棟に入院した。

窓に鉄格子こそは無いが、開いても10cmぐらい
外に出るには、常に鍵のかかっているナースステーションを通らなくてはならない。
タオルや髭剃りはナースステーションで管理。
ひも付きの短パンのひもも、入院初日に抜かれた。

軽い軟禁生活が始まった。

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精神病院に入院していた時の話 その2  

実家に帰ったものの、気持ちに変化は全くなかった。
自分は生きていく価値の無い人間だ。
早く、人生を終わりにしたかった。

実家では特にすることも無く暇だった。
図書館で本を読んで時間を潰したり、たまにヨガ教室に通ったりしていた。

死にたい気持ちは常にあり、図書館では自殺に関する本を読み漁った。
残された家族の苦しみを知ったが、
それ以上に、死にたい気持ちが勝っていた。



精神科には通っていた。
何とか、死にたい気持ちを薬で抑えたかった。
当時、飲んでいた薬をお薬手帳で調べたら
ジプレキサ、デプロメール、メイラックス、ソラナックスと書いてあった。
ジプレキサなんかは、後に入院する病院で、量が多すぎると即減らされるぐらいの量を飲んでいた。
とにかく、薬は色々試してもらったが、全然効かなかった。


6月末
実家に帰っても気持ちはかわらず、薬も効かず、かといって、死ぬこともできず
閉塞感がただよっていた。
毎日、起きてから寝るまで、ずっと苦しい思いをしていた。
朝から晩まで、死にたい、死にたい、死にたい。
でも、死ねない、死ねない、死ねない。


なぜ、早く死ななかったのか?
それは勇気がなかっただけだった。
死ぬのは怖くなかったが、痛いのに耐えられなかった。
そこを乗り切れば、死んでいたと思う。

自殺して、命を落とす人は、
あと1歩を踏み出せた人だと思う。


どうにもならない現状を、私は薬で何とかする道を選んだ。
精神病院へ入院して、24時間先生の管理の元で、薬の調整をして貰おうと思った。
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精神病院に入院していた時の話 その1  

今日は日曜日。
朝からする事も無く、暇なので、
1年前の事を思い出して、書こうと思う。

自分の苦しかった時期の事を、ブログに残しておきたい。
このブログは、私の備忘録も兼ねているので。

長くなると思うので、5~6回に分けて書く予定です。




今は普通に生活して、精神薬は全く必要のない状態に戻った。
トレードで勝った、負けたで日々騒いでいて、平和な日常を送っている。
しかし、去年の今頃は地獄だった。
死にたくて、死にたくて仕方なかった。

会社員をしていて、仕事への不適合感が強く、30代の頃から鬱を繰り返していた。
それが原因で、40を過ぎて仕事を失い、無職となった。

仕事を辞めたら、鬱が良くなるだろうと思っていたが、実際は逆で、
40を過ぎたオッサンで、何のスキルも資格も無い、それに加えて鬱病持ちの私には
もう働く会社など無いだろうと思え、絶望のどん底に落ちて行った。

無収入になり、何のために生きているのか分からない。
もう、一生働くことはできない。
自分は価値の無い人間だと、いつも思っていた。



死のうと思った。
自分の部屋の私物を整理して、
家族がいない時に、荷物を車に積み込んで、清掃工場に運んた。
本も古本屋へ持って行った。
証券会社に入れてあった資産も、
株が嫌いな妻でも分かるように、銀行口座にまとめた。

あと、葬儀屋も色々と調べた。
死んでから、スムーズに事が運ぶようにしたかった。


いつも、死ぬことばかり考えていて、
パートに出ている妻が、日中私を自宅に一人にしておくのを心配し、
常に家族の誰かがいる実家に帰る事になった。
去年の5月末か、6月の初め頃の事だったと思う。
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