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夢職ひきこもりの日々

40歳で鬱で職を失いました。2014年1月~2018年10月までトレードで生活費を稼いでいましたが、稼げなくなり完全に夢職なりました。酒場巡りをライフワークとするアル中予備軍。無業期間が長くなりすぎ再就職はあきらめました。

友達や人付き合いについて  

少し私の友人、人付き合いについて
考えてみました。

人付き合いの仕方というのは遺伝するのだろうか?
(社交的、非社交的な性格)
私の父はとても社交的で、学生時代の同窓会に出席したり、
退職した会社員時代の同僚と今でも会ったりしています。
私には考えられなことです。

一方母は、近所付き合いも少なく、友人との付き合いも殆どないように思えます。
親戚付き合いすら苦手なようで、
たまに親戚の家に挨拶に行ってもすぐに帰りたがっていました。
私はどちらかというと、母に似たような気がします。

自閉症スペクトラム障害であることも関係しているのかもしれません。
自閉症とは書いて字のごとく、自分に閉じこもることです。
どうがんばっても社交的にはなれません。



小中学校時代から、一人でいることが気楽に感じ、集団で行動するのが苦手でした。
友人から誘われても、その輪の中に入るのが嫌でした。
先日、仲違い中学時代のY先生のことを書きましたが、(近況
Y先生は私が中学3年の時の担任の先生でした。

彼はどちらかというと濃密な人間関係を求めていたように思えます。
年中色々な卒業生に会ったり、時には家に泊まりに行ったりしていたようです。
私も「家族に会わせてくれ」としつこく言われて困っていました。
先生なので、あまり邪険にすることもできず、
一度妻と3人で会ったこともありました。

Y先生は、卒業生がその後どんな生活をしているのか、
どんな家族がいるのか、気になる気持ちは分かります。
しかし、家に行きたいとか、家族と会いたいとしつこく言われたことは
とても不愉快に感じました。
世の中にはそういう感じる人が(少数であるかもしれませんが)いることを、
先生には分かってもらいたかったです。


会社員時代は、「みんなで力を合わせて仕事をする」ということは比較的少なかったです。
技術系の仕事で、開発するテーマを各人が与えられ、
その課題に一人で黙々と取り組んでいく感じでした。

一人は気楽ではありましたが、困難にぶつかっても助けてくれる人はいなくて
(みんなそれぞれ忙しくて、余裕がありませんでした)それは辛かったです。
良い事ばかりではありませんでした。

職場の人とはプライベートな付き合いは全く無く、仕事上だけの付き合いでした。
周りを見てもみんなそんな感じでした。
たまに親しい同僚と居酒屋に飲みに行くぐらい。
そういった距離感がとても心地良かったです。

学生時代は、みんな仲良く、一人ぼっちでいることは許されないという空気でしたので、
会社員時代の人間関係は楽でした。



私は一切の人間関係を拒否しているわけではありません。
大学時代の友人Oとは比較的うまく付き合っています。
彼の良いところは、私の生き方(プライベートなことも含め)に全く干渉してこないことです。
とても謙虚で威張ることも無い。押しつけがましいところも一切ありません。
年に一度いっしょに旅行に行くのですが、いつも家族に迷惑をかけないかと気遣ってくれます。

数年前、高校時代の同窓会に行きました。
高校を卒業して以来の全クラスでの集まりで、
会う人会う人虚栄心の塊のような人間ばかりで辟易しました。

みんな、どんなに自分が成功したかを披露する場になっていました。
男性であれば、職業や地位、
女性であれば如何に良い家庭を気付いているか。
優しく優秀な旦那の話、勉強ができ、一流の学校に通う子供の話。
うんざりして、もう同窓会はいいかなと思いました。

そんな私も、過去には彼ら以上に人から良く思われたい、
人から評価されたいと思っていました。
そして、今も心のどこかでそんな気持ちは残っています。
それはとても嫌なことだと思っています。
虚栄心が強い人との関わりは、できるだけ避けるようにしています。


岡山に住んでいるトレーダーのYさんとは、もう20年程の付き合いになります。
彼は自慢することが多くて、私が大きく負けている時にも遠慮することなく、
自分の勝ちを自慢する。
そんな彼の態度が嫌になって一時期疎遠になていました。

無職になって時間を持て余し、彼に久しぶりにメールをしました。
もう何年もあっていないし、メールすら一度もしていませんでしたが、
岡山で会うことを快諾してくれました。

岡山駅の改札を出ると、彼は握手を求めてきて、
「よく来たね」と歓迎されました。
その後、彼の車で岡山の観光名所を案内してもらい、
昼食、夕食を共にしました。

別れ際、もう何年も連絡を取らなかった不義理を詫びると
彼は「私は去る者追わず、来るもの拒まずです。また、いつでも来てください」
と言われ感動しました。

私が目指している友人関係もそういったものです。
私が必要と思った時に会い、必要を感じなくなったら会わなくなる。
ある意味、都合の良い、自分勝手な付き合い方にも見えますが、
逆もしかりで、自分が必要ないと思われれば、
そういった扱いを受けても当然のことと思え、憤りを感じることもありません。



先に書いたY先生は、年中会っていないと友人とは見なさない。
自分が会いたいと思った時に会えない奴はさようなら、といった態度でした。
私はそんな濃密な付き合いは息苦しくて窒息しそうでした。

今、私のまわりに残っている友人は
年に数回程度連絡を取るぐらいで、それで良しと思っている人ばかりです。
それが不満な人たちはみんないなくなってしまいます。
だから、私には友人は殆どいないのです。
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category: 友人

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中学時代の同級生の話 その9  


彼女に別れを告げられたKは、それから程なくして、
引っ越しのアルバイトを辞め、正社員の職を探し始めました。
これまで自由を謳歌していたKが、定職に就くことなど考えられませんでしたが、
彼女との出来事が余程堪えたのだと思います。

Kはハローワークで見つけた施工管理会社への就職が決まりました。
バブルが崩壊しかけた頃でした。
彼は何の職歴も資格もない自分を雇ってくれたその会社に
とても感謝していました。



その施工管理会社での仕事は、
商業施設の店舗やトイレ改装などにおいて、責任者としての現場で立ち合うことでした。
改装工事は、店舗が閉店した夜間に行われることが多く、
Kとはなかなか時間が会わなくなり、会う機会も減ってしまいました。

更に彼は、その会社で資格を取りたいと言って資格学校に通うようになりました。
資格学校は勤務終了後の夜だったので、益々会うことはなくなりました。

その勉強の甲斐があって、彼は2級建築施工管理技士、
1級建築施工管理技士の資格を取得した後、
二級建築士、最終的には一級建築士の資格まで取得しました。



一級建築士の資格の試験は、合格率が8~12%程度だそうです。
司法試験、司法書士、弁理士といった難関国家資格の合格率が
10%未満であることを考えると、それに匹敵する難易度だと言えます。

通常、一級建築士の受験資格は、大学(主に建築学科)において、指定科目を修めて卒業し、
卒業後2年以上の建築実務の経験を積んだ後に与えられます。
しかし高卒でも、二級建築士として4年以上の建築実務の経験を積めば受験資格が得られます。
Kは高卒でしたが、見事に一建築士の資格を取得しました。



彼女と別れたKは、私の知る限りでは、それ以降女性と交際することはなかったと思います。
彼に好意を持った女性がいることは知っていましたが、
余程別れた彼女が好きだったか、恋愛に傷つくことが怖くなったのか、
恋愛にまで発展することはありませんでした。

Kはそこそこ容姿で、きちんと仕事をして安定した収入があり、
結婚していないのが不思議に思えましたが、
女性と付き合うことを避けているように思えました。

恋愛だけでなく、友人との付き合いでも、人と真剣に付き合う合うということは、
お互い傷つき傷つけあうことは避けて通れないと思います。
それが嫌なら、一人で生きていくほかありません。
気兼ねなく一人で生きていくのも、また良いものだと思います。
このあたりは良い悪いでは無く、好みの問題だとも言えます。



Kと会ったのは、2~3年前に五反田(品川区)の居酒屋で二人で飲んだが最後です。
充実した仕事人生を送っているようで、無職の私は彼を羨ましく思いました。

でも何となく、昔のように話は合いませんでした。
学生時代は同じ世界に生きていても、月日が経てばお互い生きる世界も変わります。
それに伴って、共通の話題や興味があることも変わってしまいます。

私は友達というのは、時代や環境によって変わるものだと思っています。
だから私にとって、ずっと友人関係を保ち続けるのは難しいことです。
Kともまた、忘れた頃に会えたら良いなと思っています。



Kの話はこれで終わりです。
私の学生時代を振り返りながら書いてみました。
続いて、絶縁したFのことも書こうと思います。


その10 に続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その8  

Kが失恋した話を書いたので、少しまた横道に逸れます。


私が23歳の時、パン屋でアルバイトをしていて、
そこで知り合った女の子と付き合うことになりました。
夏になり、一緒に花火大会を見に行くことになって、
とある駅で待ち合わせをしました。

しかし、いつまで経っても彼女は現れません。
彼女の家に電話するも、誰も電話には出ません。
楽しみにしていた花火大会でしたが一人で見る気にもなれず、
家に帰ろうとも思いましたが、一人になるのが怖くて、
大学の研究室に行きました。

彼女が日程を勘違いしていたのかもしれない、うっかりしたいのかもしれない、
と思いたかった気持ち半分と、
彼女との関係が終わったかもしれないという気持ちが半々でした。

後日、彼女と連絡が付き、別れ話を切り出されました。
彼女と付き合って3か月目のことでした。
毎度のことながら、別れを告げられるのはいつも3か月が経過した頃でした。

私は女性を振ったことは1度も無く、
いつも振られてばかりだったので分からないのですが、
3か月ぐらいで相手のことを見極められるのでしょうか?

失恋の辛さというのは、相手から評価されないということです。
「一緒にいるに足る人物ではない」と、
全人格を否定されたようで、とても傷つき落ち込みました。
他者から選ばれない、評価されないということは、本当に苦しいことでした。



恋愛だけでなく、人が社会に出て生きていくということは
常に他者からの評価が付きまといます。

会社勤めをしていた時、
自分と同じような成果を上げている同僚がいたとして、
彼の方の査定が良かったり、昇進が早かったりすると、
自分が評価されていないようで寂しい気持ちになりました。

失業して、再就職活動をしていた時、
畑違いの職は書類選考で落とされても諦めが付きましたが、
これまでのキャリアを生かせそうな職でも、面接の機会すら与えられず、
書類選考で落とされたのには堪えました。
なぜ、自分が落とされたのか腑に落ちませんでした。

再就職先が見つからず、日銭を稼ぐため、
コンビニのアルバイトにネットで応募しましたが、
その後何の連絡がなかったのには唖然としました。

40歳を過ぎた無職は、ここまで風当たりが強いのかと。
そして世の中から自分が全く評価されず、
(仕事では)役に立たない人間であるという烙印をおされたようで、
生きていることが辛くなりました。



社会生活を送るということは、多くの人とのかかわりを持ち、
その中では否応となしに常に評価がつきまといます。
それは私にとっては苦しいことでした。
評価されない、自分が選ばれないことで傷つくのが怖ったのだと思います。
(このあたりは、私が完璧主義者だということも関連していると思います)

今は無職で社会とのかかわりも無く、人との関係もかなり断ち切っているので
生きるのが楽になりました。
一方で、私は他者からの評価を恐れるがあまりに、
色々な事を避け、狭い世界の中で生きているという実感があります。
それでは豊かな人生を歩むことはできないとも感じています。

Kは失恋をバネにして、その後、正社員の職を得て更に飛躍していきます。
だから一概に、他人からの評価が付きまとう世界が悪いとも思えません。

その9 に続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その7  

今夜は久し振りにお酒を飲んでしまったので
あまり書けませんでした。


大学3年になってからは、酒とギャンブル漬けの生活を改め、
きちんと大学に通うになりました。
時々麻雀もしましたが、授業が終わってから夜までにして、
家に帰って寝るようになりました。
平凡な日常に戻ったためか、この頃の記憶はほどんどあまりありません。
詰まら無かったです。

女っ気も全く無し。
学校と自宅を往復する毎日。
週2日の家庭教師のアルバイトは続けていました。

Nはその後、運転免許証を取得するためしばらくの間、
岐阜の実家に帰っていたので、彼とも会わなくなりました。
そのため夜遊びをすることも無くなり、健全な生活に戻りました。


Kは相変わらずフリータをしていて、引っ越しやビール配達のアルバイトをしていました。
体を動かす仕事をして、仕事が終わるとビールを飲んで、
時々好きなバンドのライブやコンサートに行くといった生活で、
何の不満もなさそうでした。

一方、カメラマンの見習いとして働いてたFは、
職場で年配社員に説教ばかりされていて、不満が多かったようです。



ある時、Kから飲みに誘われ、私の家でK,Fとの3人で飲んでいると、
Kは深刻な顔をして、彼女と別れたという話を聞かされました。

Kの彼女は短大を卒業後にOLとして働き始め、仕事帰りに通っていた
英会話スクールの外国人講師に惹かれ、
Kに別れ話を切り出したそうです。

またKがフリーターでだったこともあって、
結婚を考えると将来が不安だとも言われたと言っていました。
Kの落ち込みは激しく、かける言葉も見つかりませんでした。



それからどのくらい経ったか覚えていませんが、
Kは引っ越しのアルバイトを辞め、定職に就くことになりました。
これまで自由を謳歌していたKが、定職に就くことなど考えられませんでしたが、
彼女との出来事が余程堪えたのだと思います。

彼はハローワークに通い、そこで見つけた施工管理会社への就職が決まりました。
高卒で何の職歴も資格もない自分を雇ってくれたその会社に
彼はとても感謝していました。


その8 に続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その6  


20歳当時のK、Fのことを書いたので、私のことも少し書いておきます。

大学2年に入ってからの私の生活はかなり荒れていました。
引っ越しのアルバイトは辞め、家庭教師のアルバイトと掛け持ちで、
ハンバーガーショップでのアルバイトを新たに始めました。
そこで出会ったNと意気投合して、毎日よのうに遊んでいました。

Nは私より3歳年下で、出会った当時彼は17歳でした。
岐阜県出身で、高校を中退して東京に働きに出てきました。
高校を中退した理由は、朝起きることができず学校に行けなかったからだそうです。

Nは東京に住んでいる叔父と同居していました。
当初は喫茶店で働いていましたが、喫茶店を辞めて
私と同じハンバーガーショップでアルバイトを始めました。



Nと馬があったのは、彼もギャンブルとお酒が好きだったからです。
(中学時代の友人Kと同じです)

ハンバーガーショップのアルバイトは23時までで、その後は
彼と2人で飲みに行くか、バイトのメンバーと麻雀に行くかでした。
バイト先の店長も麻雀が好きで、時には店長を交えて麻雀をしました。

また、社員がいない時は、バイトが終わった後コンビニにお酒を買いに行き、
店内の客席でおいちょかぶ大会が開帳され、
深夜の客のいない店内に「クッピーン」「シッピーン」といった声が響き渡っていました。
花札なんかもやった記憶があります。

今思うと、あのバイトは店長を始め、みんなギャンブル好きで狂っていました。
例えギャンブルに興味が無くても、みんな巻き込まれていたように思います。
新しいバイトが入ってきて、麻雀やおいちょかぶを知らないというと、
直ぐに教育してメンバーに育て上げていました。
流石に女の子たちは麻雀はしませんでしたが、おいちょかぶや花札は普通にやっていました。
(ルールが簡単なので、すぐに覚えられたこともある)
当時はインターネットも普及していおらず、娯楽も少なかったからかもしれませんが
みんなギャンブルにのめり込んでいました。

あのアルバイトは、私の経験したバイトので一番楽しかったですが、
店長をはじめとするメンバーや、職場環境はかなり特殊だったと思います。
あんなハンバーガーショップは無いと思われます。



通っていた大学は週6日ありました。
家庭教師のアルバイトは週2日、ハンバーガーショップでのアルバイトが週3日
ハンバーガーショップのアルバイトは授業が終わて、夕方頃から23時まで働いていました。
Nはフリーターなのでほぼ毎日14時から23時まで働いていており、
私が働くときは、だいたい閉店まで一緒でした。
閉店後は、彼と一緒に夕飯を食べに行くか、アルバイトのメンバーを誘って麻雀にいくかでした。
真っ直ぐ家に帰ることはまずありませんでした。

夕飯は、店の近くにつけ麺大王という中華料理屋があり、
そこでラーメン、麻婆豆腐定食、天津丼を良く食べました。
それからコンビニでお酒を買って、公園で飲みました。
後にNは叔父さんの家を出て、一人暮らしするようになったので、
彼の家で飲むこともありました。


麻雀は場代が安い蒲田(大田区)まで電車に乗って行きました。
場代は学生で1時間200円でした。
バイトが終わってからなので、終電近くで蒲田まで行って、
始発が動き始める頃に解散しました。

私は家に帰ることなく、そのまま大学へ行き、教室の一番後ろの席でいつも寝ていました。
大学にはシャワーがあったので、空き時間にシャワーを浴び、
授業が終わるとそのままアルバイトへ行きました。
時々家に帰りましたが、着替えるだけでした。

それに加えて、競輪も大好きだったので、
川崎、花月園競輪が開催されるときは3日間開催のうち1日は行っていました。
記念競輪の時は2日行くこともありました。

このように、大学2年時は毎日忙しく、
大学にいるか(寝て、シャワーを浴びる場所)、バイトをしているか、
麻雀などのギャンブルをしているか、競輪場にいるか、お酒を飲んでいるか
というような荒れた生活を送り続け、勉強は全くしなかったので
成績はガタ落ちになり留年の危機に陥りました。

流石の私もこのままではまずいと思い、大学3年になるのを機に、
断腸の思いでハンバーガーショップのアルバイトを辞めることにしました。
とても残念でしたが、背に腹は代えられませんでした。



バイトを辞めてからもNとの交流は続いて、彼の岐阜にある実家に遊びに行ったりもしました。
彼の両親もギャンブル好きで、一緒に麻雀をしたり、
豊橋競輪場の開設記念に連れて行ってもらったり、
とても良い思い出になっています。

Nとは酒を飲みながらこれからのお互いの人生について良く語り合いました。
Nは高校中退で、学歴は中卒だったので、
「自分は乞食になるか大金持ちになるかのどちらかの道しかない」
といったことを良く言っていました。

その後彼は、パチンコ屋の店員、歌舞伎町でホスト、芸能事務所のマネージャーなどを経て、
最終的には芸能プロダクションを興しました。
私が就職してしばらく経った2000年頃には、渋谷で家賃50万円のマンションに住んでいて、
私とは別世界に行ってしまったようで、とても寂しい気持ちになりました。

彼が会社を興したばかりの時は経理の明るい人間がおらず、
私が数字に得意だったこともあって、一緒に仕事をしようと誘われましたが、
右も左も分からない芸能関係の仕事に人生を捧げる勇気も無く断りました。


私が30歳ぐらいになるまでは、彼と年賀状の交換をしたりと交流は続いていましたが、
今はどこで何をしているのか全く分かりません。
もう一度会ってみたい友達の一人です。


その7に つづく

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中学時代の同級生の話 その5  


3人では家で飲むことが多く、冬になると鍋やおでんをしました。
男3人でスーパーに野菜や肉、酒を買いに行き、
実家から電気グリル鍋を借りてきて鍋を作りました。

当時、冬季節限定のビールの出始めた頃で、
鍋の時はみんなで「サッポロの冬物語」を飲んだことを覚えています。

3人ともビールを好んで飲みました。
Kはキリンが好きで、ラガーや一番搾りを飲んでいました。
Fはアサヒのドライが好きでした。
Kの兄はサッポロの黒ラベル。

私はアサヒのZが好きでした。
あとは、ハイネケンやクアーズといった外国産ビールを飲んでいました。
当時は外国産ビールは350ml缶が200円ぐらいで売っていて
国産ビールよりも安かった記憶があります。
発泡酒は無かった時代です。



20歳ぐらいの時の冬だった思います。
いつものように鍋をしようという話になった時、
Kが連れてきたい人がいると言いました。

当日、Kが連れてきたのは、とても可愛い女の子でした。
付き合い始めた彼女だと紹介されました。
高校時代の同級生で、卒業後のクラス会で再会して、
付き合いが始まったそうです。

私はというと、付き合った女性は何人かいましたが、
3か月ほどで女性の方からことごとく振られて上手く行きませんでした。
結婚願望は昔から強かったのですが、
私は恋愛には向かなさそうなので、この先ずっと一人で生きていくのだろうなと
ぼんやりと考えていたところでした。

そんな中で、Kがとてもかわいい彼女を連れてきたので、
嫉妬すると同時に、激しい劣等感に襲われたことを覚えています。



3人が高校を卒業して2年が経った1992年4月
Kは2浪するも夢が叶わず、進学を諦めることになりました。
浪人時代も続けていた引っ越しのアルバイトを本業とし、
「フリーター」として生計を立てることになりました。

1990年代前半はまだバブル景気中で、仕事はいくらでもありました。
リクルート社が発行する求人誌「FromA」はバブル景気を受け、
求人広告増加に対応させるため、1989年春から毎週金曜日発売となる「From A to Z」
が創刊され、週2回の発行となりました。
(Wikipediaより)

また、1980年代後半から「フリーター」という言葉が生まれ、
アルバイトで生計を立てつつ、会社に縛られず自由な生き方をするといった
新しい生活スタイルも確立されつつありました。

Kには2歳上の兄がいましたが、彼もコンビニエンスストアの深夜のアルバイトと
ビル清掃のアルバイトをしつつ、生活していました。
当時は沢山仕事があり、時給もそれなりに良かったように思います。



一方、Fは映像関係の専門学校を卒業後、撮影スタジオの職を得ました。
スタジオではCM撮影などをするカメラマンの見習いとして働いていたようです。
入社したてのころは、年配のスタッフに小言を言われたり説教をされることを嘆いていました。

カメラ、ライトなどの重い機材を扱うことも多く、重労働だったようですが、
引っ越しのアルバイトで体を鍛えていたので、
何とかついていけると言っていました。

彼は2年ほどそのスタジオで下積みを積んだ後、大きな会社に転職し、
今はフリーのカメラマンになっているようです。


その6 につづく

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中学時代の同級生の話 その4  


家庭教師のアルバイトを始めてからは
引っ越しのアルバイトの回数も減っていき、
いつの頃からか全く行かなくなってしまいました。
K、Fの2人は、その後もそのバイトを続けているようでした。

一緒に仕事をすることも無くなったので、2人とは縁が切れても良さそうでしたが、
その後も付き合いは続きました。
お互い家が近かったからかもしれません。



Kはお酒と麻雀が好きで、私と同じ趣味だったこともあり、
付き合い易かったです。
性格も温厚で人柄もとても良かったです。

Kとは良く2人でフリーの雀荘に通いました。
代々木の平和と巣鴨のアルファに行くことが多かったです。
代々木の平和は、「東京の九龍城」と言われる、今は無き代々木会館にありました。
1階に中華料理屋があって、チャーハンなど出前を取ることができました。
役満を上がると名前を書いた紙を貼ってくれて、
お店からご祝儀に瓶のコーラが振舞われました。

平和で麻雀をした後は、道を挟んだ向かいのビルの地下にある
ニュートーキョーという居酒屋で飲みました。
麻雀の話をしたり、お互いの近況を話したり、とても楽しい時間を過ごすことができました。

学生の頃は、学業(試験やレポートの提出など)や将来への不安(主に就職)はあったものの、
友人とお酒を飲んだり、競輪や麻雀といったギャンブルをしたりして
比較的ストレスも少なく、居心地の良い期間でした。
不安よりも楽しさが上回っていたのだと思います。



一方、Fとはそれ程交流はありませんでした。
2人で飲んだり、会ったりしたことはあるにはありますが、
回数はとても少なかったです。

KとFとは仲が良かったです。(今でも仲が良いようです)
共通した音楽の趣味(ヘビーメタル、デスメタル)があって
一緒にコンサートやライブに行っていました。
コンサートが終わってから、一緒に飲もうと誘われて、
彼らと合流して飲むことが多かったです。



3人で飲むのは、外よりも家でした。
学生でお金もそれほどなかったというのもありますが、
家で飲む方が落ち着きました。
私は大学時代の途中から一人暮らしを始めたので、
私の家で飲むか、Kの家で飲むかでした。

近くのコンビニで瓶ビール(ある時期からは缶ビール)、コロッケやハムカツなどのお惣菜、
スナック菓子、さきいかやいかの燻製などをつまみに買って帰りました。
一人2,000円ぐらいで飲むことができました。

大体、21時過ぎから飲み始めて、1時頃に解散することが多かったです。
それでも飲み足りないときは、24時間営業のコンビニに追加でお酒を買いに行きました。
このコンビニではKの兄が良く深夜アルバイトをしていました。
時々みんな酔潰れ、私の家に泊まっていくこともありました。

当時、Kの家にはお風呂が無かったので、
Kに付き合い3人で近くの銭湯に行ってから、家で飲むこともありました。
風呂上がりに飲むビールは最高でした。


こんな感じで、私が引っ越しのアルバイトを辞めてからも
2人とは定期的に会っていました。


その5 に続く

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中学時代の同級生の話 その3  


1990年。3人はぞれぞれの高校を卒業しました。
私は大学の機械工学科に進学し、
Kは志望する大学に合格できずに浪人し、
Fは映像系の専門学校に進学しました。

私は大学に入ってからは割の良いアルバイトをしたくて
派遣の家庭教師をはじめました。
時給は2,300円。
当時はバブル経済真っ只中で、お金が余っていたのだと思います。
破格の時給でした。

六本木では、タクシーを拾うために万札をひらひらさせて手を振っても
全く捕まらなかったそうです。
1985年、ドル高是正のため先進5か国が合意した「プラザ合意」により
金余りが生じたのです。

私の家庭教師の派遣元の本業は不動産業でしたが、
経営の多角化の一環として家庭教師の派遣業務を始めたようです。

平日、大学が終わった後、1日2時間働いて4,600円でした。
エアコンの効いた部屋で子供に勉強を教え、おやつも出してもらえました。
引っ越しの仕事は、外で1日肉体労度をして6,500円。
そんなこともあって、私は引っ越しのバイトからは遠ざかるようになりました。



大学時代には色々なアルバイトしました。
ハンバーガーショップ、喫茶店(2軒)、パン屋、プリンターメーカーの耐久試験、
塾講師、その他にもあったかもしれません。
どれも2~3年程で辞めてしまいましたが、
この家庭教師だけは大学院を卒業するまでの6年間(1990年~1996年)続けました。

しかし、1993年初め頃よりバブル崩壊が本格化し、
家庭教師派遣元の会社の本業である不動産業の業績も悪化。
途中、アルバイト料の振り込みが遅れる事態になりました。
多くのアルバイトが辞めていき、バイト料が支払われないまま泣き寝入りしていたようです。
社員も相当数いなくなりました。
ごっぞりと、同業他社に転職したという話も聞きました。


私は教えている生徒さんが中学受験を控えていたこともあって、
途中で仕事を投げ出すことができず、バイト料が支払わるか不安なまま、
仕事を続けました。

詳細を書くと、それだけで1時間ぐらい語ることができるのですが、
私は単身で本社に乗り込み、専務と交渉をしました。

専務はバイト料をいついつまでに振り込むと調子の良いことを言い、
それを信じて待つのですが、振り込みの日に通帳を確認するも振り込まれていない。
頭に血がカーッと上り、電話をすると専務が出て、
「どうなっているのですか?これからそちらに話を伺いに行きます」と言い
会社に行くと、専務はどこかに行ってしまいいなくなっている。

そんな感じで、何度も嘘をつかれ騙されはしたもの
1年遅れぐらいでバイト料は全て回収しました。
専務に「あんたはしぶとい、負けたよ」と言われたのを覚えています。
私はお金に対する執着心が人一倍強いのです。

最終的に本社は倒産し、家庭教師派遣業は別会社として存続。
その後は、バイト料もきちんと支払われるようになり、
最後まで仕事を続けることができました。

当時は経済のことは全く分かりませんでしたが、
今思うと、あの時の不動産業は大変だったと思います。
私に支払う月数万円のお金すら、本当になかったのだと思います。


すみません、私の学生時代の思い出話ばかりになってしまい、
また本題から逸れてしまいました。
次回こそは、KとFの話に戻ります。


その4 に続く

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中学時代の同級生の話 その2  


少し横道にそれますが、アルバイトの事も書いておきます。
私が高校生だった時(1987年~1990年)
その引っ越しのアルバイトは日給6,000円でした。
高校を卒業した後、500円値上げされたように思います。
同じ高校でマクドナルドでアルバイトをしていた友人がいましたが、
彼の時給は580円でした。



引っ越しの仕事は当たり外れがあって、
家族の引っ越しだと荷物が多く、更に搬出、搬入があると1日仕事になります。
18:00を過ぎると残業になり、きちんと残業代は支払われました。

しかし、単身世帯の搬出のみの仕事だと、午前中に仕事が終わり
そこで解散になりますが、1日分の日給がもらえました。
午後からは自由になるので、遊びに行ったりしていました。



引っ越しの仕事では、ご祝儀を頂くことがありました。
1,000円のことが多かったですが、時々3,000円ぐらい頂くことがあって、
その時は嬉しかったです。

ご祝儀は、依頼主の方が作業員個別に渡してくれる時もありますが、
責任者に「みなさんで」と一括して渡す時もあります。
その時は、責任者(トラックのドライバー)が私たちアルバイトに均等に配分してくれました。

しかし、引っ越しシーズンの繁忙期は、
プロパー(その会社の正社員)ではない、フリー(委託)のドラーバーの時もあり、
フリーのドライバーの中には、ご祝儀を全て自分の懐に入れてしまう人がいました。
そのドライバーとの仕事は嫌でした。



引っ越しの作業では昼を挟む時があり、
出前などの昼食が振舞われることが時々ありました。
そばや丼物が多かったですが、寿司などもありました。
学生時代でお金も無く外食などできなかったので、そういった時は嬉しかったです。

搬入、搬出の仕事の時は移動がありました。
トラックの助手席は見通しが良く、乗って楽しかったです。
しかし、しばらくすると眠くなり、起きているのが辛かったです。

移動の途中に昼食をとることも多かったです。
ラーメンショップとか、山田うどんに行った記憶があります。
ですから、先日、小野路を歩いたときに立ち寄った
ラーメンショップは懐かしさを感じました。
無職日記 六月二十四日


ビールや飲料の箱詰め作業は最悪でした。
ずっと立ちっぱなしで、ひたすら缶飲料を箱に詰める。

パートの女性などもいて、総勢10人~20人ぐらいで
工場の一角の部屋で作業していました。
夏は冷房も無くて汗だくなりながらやっていたので、とても辛かったです。
この仕事の時は、嫌で何度か断った記憶があります。


その3 へ続く

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中学時代の同級生の話 その1  

JINJINMANさんから、崎陽軒のシウマイの思い出 のコメントで
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Kさんのとの思い出話も知りたいけど、Fとの絶縁は何があったのかも知りたいです。
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と頂いたので、中学時代の友人の話をしばらく書くことにしました。

酒癖の悪いFとは絶縁したので、
苦労人であるKとのことだけ書こうと思いましたが、
リクエストがありましたので2人のことを書きます。



KとFとは中学3年の時に同じクラスの同級生でした。
私のクラスはみんな仲が良くて、とてもまとまっていた思います。
でも私は、仲の良いみんなの輪に入れませんでした。
決して仲間外れにされていたわけではなく、
むしろ、気にかけてくれて誘ってもらったりしていました。
でも、一人でいる方が気が楽でした。
みんなと一緒にいることは苦痛に感じました。

私は41歳の時に自閉症スペクトラム障害であることが分かりました。
今になり、中学時代に友人の輪の中に入れなかったこと、
一人でいる方が楽だったことの説明がつくようになりました。

そんな感じで、KとFとは中学時代特別に親しかったわけではありませんでした。




中学を卒業して、K、Fとは別々の高校に進学しました。

私は高校に入ってから、遊ぶお金欲しさにアルバイトをすることにしました。
教育熱心だった両親にアルバイトをしたいと相談したら
予想通り猛反対されたので、親には内緒でアルバイトを探しました。

平日の決まった時間にアルバイトをすると親にバレてしまうので、
休みの日にできる仕事を探しました。
丁度、同じ高校に通うIが、ビールメーカーの配送部門で、
日曜日にできるアルバイトを始めたので、私も紹介してもらいました。

このビールメーカーの配送部門でのアルバイトの仕事は
休日の引っ越し作業や、お中元、お歳暮シーズンの
贈答用ビールの箱詰め作業でした。
ビールの配達自体は平日が中心だったのでありませんでした。




そんな仕事をしばらくしているうちに、
どこでどんな風に話が伝わったのか覚えていないのですが、
中学時代の同級生だったKとFも、そのバイトをしたいと言い、紹介することになりました。

引っ越しの仕事は現地集合、現地解散でした。
多くの現場は、トラックのドライバーが一人いて
他にアルバイトの作業員が2~3人いました。
だから時々、KやFと現場が一緒になることがありました。

現場が一緒になると、仕事が終わってから、私の家や
Kの家に行って酒盛りをしました。
Kには3歳離れた兄がいて、たまにKの兄に誘われて
Kの家の近くの焼肉屋へ行ったりもしました。

人付き合いが苦手な私でしたが、
なんとなく、K、Fとはストレスなく付き合っていたと思います。


その2 に続く

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崎陽軒のシウマイの思い出  

木曜日、調布パルコの地下で崎陽軒のシウマイを大量に買って帰り、
夜に自宅でビールを飲みつつ食べました。

翌日(金曜日)の夕飯は、ご飯とシウマイの残りと冷ややっこ。
昨晩(土曜日)の夕飯も、ご飯とシウマイの残りと冷ややっこ。
全て食べきりました。とても美味しかったです。
私は崎陽軒のシウマイが大好きです。

金曜日の夜、お風呂の湯船に浸かりながら、
崎陽軒のシウマイについて色々と思いを巡らせていました。



私が20代前半だった頃
当時の私は今ほど人嫌いでは無く人並みに友人がいて
遊びにいったりしていました。
中学校時代の友人、KとFとは家も近かったこともあり
良く会っていました。


Kの家は昔ながらの家だったので、自宅にお風呂がありませんでした。
(後にリフォームをしてお風呂が付いた)
そんなこともあり、一緒に銭湯に付き合って、
その後、私の家かKの家でコンビニで買った来た
さきいかやポテトチップスをつまみに缶ビールを飲みました。

KとFとお酒を飲みながら、他愛もない話を延々として
今振り返ると、とても幸せな一時でした。



銭湯に行ってビールを飲むのに物足りなくなって、
時々温泉に行くようになりました。
当時はインターネットも無く、本を買って調べて色々と行きました。

ある時、栃木県の那須塩原にある鹿の湯に行くことになりました。
平日の朝、私たちは山手線に乗って上野に行き
そこから東北本線(宇都宮線)に乗って黒磯へ。
鈍行列車なので3時間弱かかります。

長旅なので、電車の中でビールを飲もうということになり、
朝の通勤客の行き交う上野駅のホームの売店で、
崎陽軒のシウマイと缶ビールを3人で買いました。

売店の売り子の中年女性は、朝からお酒を買い求める若い私たちに向かって
「朝から良い御身分ね」と冷やかし半分に言いました。

そうだよな。
私たちは学生で、そういったことはまだ許されているけど
社会に出て働き始めたら、そんなことは出来なるなるのだなと考えて
切なくなったことを覚えています。


鈍行電車の車窓から流れゆく景色を見ながら
朝から飲むビールは格別で、つまみが崎陽軒のシウマイなら尚更のことでした。
3時間弱の鈍行列車の旅は、あっと言う間に終わりました。

黒磯駅からはバスに乗って那須湯元温泉まで35分
そこから歩いて2分で鹿の湯へ。
ボロイ木造の小屋の中にある温泉で、とにかく熱かったこをと覚えています。

朝からビールを飲んで、熱い温泉に浸かり
帰りはみんな疲れ切っていたので、那須塩原からは新幹線で帰りました。



これが、私の崎陽軒のシウマイの思い出で
自宅の湯船に浸かりながら、その頃の出来事を思い出しました。

その後、Fとは絶縁し、Kとは4~5年前に五反田の居酒屋で飲んだのを最後に
会っていません。
Kとは結構仲が良かったので、機会があれば彼のことを少し書いてみたいです。

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友人について  

友人は、その時代その時代で変わって行くものです。

【中学時代】
野球が好きだったので、野球ができる友人とばかり遊んでいました。
放課後にカラーバットとカラーボールを持っていき
中学校の校庭で夕方まで野球をやっていました。

当時はファミリーコンピュータが出たばかり。
インターネットも無ければスマホも無い。
だからクタクタになるまで外で体を動かして遊びました。
楽しかったです。


【高校時代】
高校に入ってからは悪の道に片足を突っ込み始めました。
いつもそばにいるのは博打好きの友人。
高校の近くにウインズ後楽園があったので、
毎週土曜日の午後は(当時は土曜日も午前中授業があった)
N君と100円玉を握りしめてウインズへ。
愛読誌は競馬ブックと競馬報知

余談ですが、あとから知りましたが、
N君は上場企業のオーナー社長の息子だったのです。
当時は羽振りもあまり良く無くて、金持ちのようには見えませんでしたし、
身なりも地味な感じでオーラも全くなかったので
そんな凄い人とは思いませんでした。
彼は一度はその会社の社長になりましたが、
今は、彼も、彼の一族もその会社にはいません。

あとは麻雀も良くやりました。
放課後は、お茶の水にある駿河台予備校に通っていましたが、
出席を取るための磁気カード(銀行のキャッシュカードのようなもの)を
いつも真面目に予備校通いをしている野口君に託して、
(出席状況は親宛に郵送されてくるので)
麻雀仲間と神保町にある雀荘に入り浸っていました。

4人メンバーが集まらない時は、とりあえず雀荘へ行き、
あぶれていそうな人に声を掛けて、知らない人と打っていました。
神保町は大学や予備校が多いので何とかなりました。

あれ程熱中した麻雀も今では全くやらなくなり、
もはや点数計算すらできないと思います。


【大学時代】
高校時代にやっていた競馬以上に面白い競輪に出会い、競輪三昧の日々。
午前中は大学に行き、競輪開催日は午後の授業をサボって競輪場へ。
ホームバンクは川崎、今は無き花月園、少し足を延ばして立川、京王閣。

私は東京都出身なので、埼京ライン(埼玉、東京)の選手を知っていなくてはならないのですが、
川崎、花月園がホームなので南関(千葉、神奈川、静岡)の選手に詳しくなってしまいました。
A級1班以上の南関の選手は、期別、出身県、脚質など、殆ど頭に入っていました。
当然、130人いるS級1班の選手のデータも頭に入っていました。

※当時の競輪は、上位から順にS1、S2,S3、A1、A2,A3、A4,
 B1、B2の9班に分かれていた。

愛読誌は月間競輪。郵送で送られてきます。
2冊購読して、1冊は購読用、1冊は保存用。
保存用は大事にとってありましたが、10年前今の家に引っ越した時に全て処分しました。
勿体ない事をしました。

競輪が終わってから反省会。安居酒屋へ行って競輪談議。
大勝ちすれば平和島のクアハウスで大宴会。

良く競輪場へと一緒に行ったN君は岐阜県の出身。
実家は縫製工場を経営している大金持ち。
100円玉握りしめている私と違って、彼は特券で買っていました。

彼の父親も競輪好きで、夏休みに彼の家へ遊びに行ったとき、
岐阜から高速で豊橋まで行き、豊橋記念に行ったのは良い思い出です。
彼の家族はみんな博打好きで、彼と彼の両親と私の4人で麻雀をしたら
身ぐるみを剥がされました。


【会社員時代】
会社員時代・・・それは暗黒の時代。
仕事三昧の毎日で、友人との接触は全く無くなりました。
十二指腸潰瘍で入院、肺炎で入院、鬱で入院。
友達と会うぐらいなら寝ていたかったです。
たまに職場の同僚と居酒屋へ行って、くだを巻いて息抜きをするのが唯一の楽しみ。

趣味でやっていた株を通じ、インターネットで知り合った人とオフ会をして、
仲良くなった人とメールをしたり飲みに行くようになりました。


【無職時代】
働いている友人とは話も時間も合わないので、
ネットで知り合った無職の友人とたまに会ったりしています。



結局、友人と言うのは、その時の生活環境だったり、趣味や好きなことによって
変わってくるものです。
時代や環境が変われば友人も変わる。
当たり前のことなのでしょう。


新年会の記事のsujokerさんとたけちゃんまんさんからのコメントの
返信を書く予定でしたが、友人のことを書いたら終わってしまいました。
返信はまた改めて書きます。

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一人が好きなのに、なぜ結婚して子供まで作ろうと思ったんですか?  

littleXさん
コメントありがとうございます。
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一人が好きなのに、なぜ結婚して子供まで作ろうと思ったんですか?
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本当です。なんでだろ?

一人が好きなのは事実です。
でも、結婚は早くしたかったですし、子供も欲しかったです。
そして今現在、結婚して心の底から幸せだと思っていますし、
子供がいて本当に良かったとも思っています。

学生時代、一人暮らしをしていましたが
部屋に一人でいるのは寂しかったです。
(今でも日中家族の誰もいない家に一人で居ると寂しくなる時があります)
だから、早く好きな人を見つけて結婚したかったです。
結婚願望は人一倍強かったと思います。

そして、子供も大好きです。特に小さい子供。
今はもう大きくなりましたが、それでも2人の子供を(遠くから)観察していると
とても面白いです。
あー、私の悪い所が似ているなとか。
小さな家ですが、家族四人で暮らしていることに安心感を覚えます。

では、なぜ、
一人が好きなのに、結婚したのか?そして子供まで作ろうと思ったのか?
を考えてみます。

そのヒントは、私が過去に書いたことにありました。
コメントへの返信からの引用。
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しかし、酒場で飲んでいる時はこの限りでは無く、人混みが心地良く感じます。
「自分とかかわりが無い誰かが傍にいてくれる」というのは良いものだなあと思います。
初めに書いた事とは凄く矛盾しているのですが。

私は人付き合いが苦手で、あまり社会とのかかわりを持ちたくありません。
だから、人里離れた山奥での生活も良いのではないかと
一時期考えたこともありましたが、
まわりに人が全くいない、絶対的な孤独には耐える自信がありませんでした。

私に干渉してこない、そして繋がりが全く無いような他人であれば傍にいて欲しい。
それが社会と繋がっているという錯覚となり、私に安心感を与えてくれます。
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私は孤独が好きなのですが、それでいて寂しがり屋でもあります。
(これは相反することで矛盾していることですが)
私は誰かが常に傍にいて欲しいのです。
しかしながら、その傍にいる人達が過剰に干渉してくることは不快です。

一人で居ることが好きな私が、結婚して、子供をもうけて
離婚することなく結婚生活が維持てきているのは、妻の影響がなかり大きいです。
私の妻は驚く程私に干渉してきません。
しかし、私のおかしな態度にははっきりと物申してきます。
そいうった、適度な距離感を保ちつつ一緒にいてくれます。

私が子供に対する態度も同じです。
子供の進路や生き方に対しては、可能な限り口を出さないようにしています。
また、私の価値観を押し付けないように気を付けています。

下の子が今年の春に高校に入学しましたが、入学直前までどこの高校に行くのか知りませんでした。
私の両親は教育熱心で、進路や成績に対して過剰なまでに干渉してきて、
とても辛かった思いがあるので、私の子供にはそいう思いをさせたくないのです。
このように、私は子供に干渉しないので、現在の親子関係は悪くは無いと思っています。
(子供はどう思っているかわかりませんが)


世間一般の家族像(結婚であったり、子供をもうけたりを含む)は
一つ屋根の下で、常に一緒に居て、会話を交わし、協力し合って仲良く暮らす
というイメージかもしれませんが、
私にとっての家族とは、以前も書きましたが、
たまたまこの世で縁があって、一つ屋根の下で共同生活を送る他人なのです。

友人・知人よりは少し距離が近い。
だから困っている時はお互い助け合うこともある。
(時には助けないこともある)
でも、困っていないならバラバラに好き勝手生きている。
こんな感じです。

こんな普通の家族とはかけ離れた家族形態が維持できているもの
一緒になってくれたのが、私にあまり干渉してこない妻であり、
あれこれ口出ししなくても自分の頭で人生や生きる事を考えてくれる子供だからこそ
成り立っているような気がします。

これは微妙なバランスの中で維持されているので、
何かの拍子に崩れる危険性は常にはらんでいます。
私にとって、血縁とか、家族の絆というのはあまり重要なものでは無いので。

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友達付き合いについて  

中学時代の担任先生と数年前に再会し、
昨年の夏ごろから定期的に先生とその教え子の2人、私の4人で
会うようになりました。
私はどうもその会に参加することに苦痛を覚えるようになりました。

昨年の12月末、忘年会をしたにも拘わらず、
それから1ヵ月も経っていないのに、1月下旬にみんなに会いたい
というメールが先生からきました。

他の2人は会いましょうと先生に返信していましたが、
私は無視しています。


なぜ、その会に参加したくないのかを自分なりに考えたのですが、
出た結論は、「他人に興味が無い」ということでした。
そんなこともあって、私の人付き合いについて考えてみました。



■大人数が苦手

私は1対1、1対2で人とあう分には居心地の良さを感じます。
それは、お互いに話をする時間ができて、その人の考えを聞いたり、
理解することができるからです。

ところが大人数の場合、ゆっくりと話すことができません。
そして、声が大きい人ばかりが一方的に話すことが往々にしてあり、
(この4人の会では先生が殆ど一人で話している)
私の求める人への理解というのがどうしても不足してしまいます。

結果的に「ただ会った」という事実だけが残り、
多くの時間を費やした割には残るものが何もありません。

そして大人数の場合、自分の体裁を整えるためか、
見栄えの良い事しか話しません。
酷い時には、自分を大きく見せようとしたり、自慢話を延々としたり。
そんな話に私は興味がありません。

もし興味があるとしたら、不幸のどん底にいるような人の話です。
どんな不幸があるのか、その時はどんな気持ちになのか、
そして、それを切り抜けるためにどんなことを考えているのか。
しかし自分の弱みを見せることは、大人数の前ではなかなかできません。


■他人に興味が無い

そもそもですが、私は他人にあまり興味がありません。
どちらかというと、自分自身に興味があります。
だから、他人がどんな生活を送っているかはどうでも良いのです。
そして、幸せであろうが、不幸せであろうが私には関係の無い事です。


■孤独は辛い

他人には興味が無いと言っておきながら、
人との接触が全く無い一人ぼっちというのは寂しいものです。
私は人嫌いで他人に興味が無い事は事実ですが、
山奥の小屋に住み、人との接触が全くない絶対的孤独に耐えられる自信はありません。
ほんの少しで良いので、私の事を幾らか理解してくれて、会話を交わすことのできる
リアルな友達が必要です。


■会っていて居心地が悪い人

先の4人の話に戻りますが、彼らの職業は元教師、会社員といったように
私とは考え方が違ったり、住む世界が違ったりとあまり共通点がありません。

特にここ2年程、先生と話していて分かったのですが、
教師というのは職業柄、生徒に教える(それは勉強だけでなく生活面も含めて)ことが仕事です。
だから、私たちが卒業してからも、先生は「ああした方が良い」「こうした方が良い」と
事ある事に言います。
それは私にとっては苦痛です。
他の人はどう考えているかは分かりません。
それを正面から受け止めることなく、上手く聞き流しているのかもしれません。

また、先生のアドバイスや教えというのは、私にとっては真逆のことが多いのです。
私は「自由」「勝手きまま」「やりたいことをする」といったことを大切にしています。
先生は「教える」「管理する」「指導する」といったことがずっと仕事だったので、
そもそも考えが合うわけがないのです。

権威的な仕事についている人とは、おそらく話が合わないと思います。


■会っていて居心地が良い人

では、どういう人といるのが居心地が良かと考えると
自分と立場が近い人、考えが似ている人です。
キーワードは次の3つです。

(1)無職
 無職の人には色々な話を聞いみてたいです。
 どうして無職になったのか、1日何をして過ごすのか、
 この先の人生をどのように考えているのか、生き甲斐は何か
 無職の良いことろ、悪いところ・・・
 お互いの考えや情報を交換をしつつ、
 安酒を飲みながら5時間ぐらい語りたいです。

(2)精神的に病んだことがある人、病んでいる人
 心が病んでしまう人、生きるのが辛く感じる人というのは
 ガラスのように繊細で、精神が研ぎ澄まされている人が多いです。
 そいう人たちは、自分自身が壊れてしまうようなギリギリの経験を
 幾度と無くしているはずなので、(現在進行形に人もいるでしょうが)
 そいう人たちと魂の交流を図りたいです。

(3))同じ趣味の人
 株式トレーダー、散歩が好き、将棋が好き、酒場が好き、本が好き、競輪が好き
 複数共通項があれば尚良しです。



■最後に

基本的に私が人と会いたくないのは、「そもそも他人に興味が無い」
あるいは、「自分の興味範囲が恐ろしく狭い」ということにあるからです。
だから、先生を中心として4人と会っても全然面白くないのです。

このメンバーが
・定年退職後、精神的に病んでしまった元教師
・無職で職を探しているが中々見つからない友人
・仕事はしているものの、酒と競輪に給料を殆ど注ぎ込んでいる友人
であるならば、定期的に会うのも悪くないと思っています。。

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学園祭の話  

11月は私の卒業した大学の学園祭の季節です。
卒業後、何度か学園祭に遊びにいったのですが、
最近は殆ど行かなくなりました。


大学も知っている人がいなければ行く理由は無いのですが、
幸いにも私の3つ年上だった同じ研究室の先輩が
今は教授として研究室に残っているので、遊びに行ける環境にはあります。

でも、ずっと会っていないので気恥ずかしい気もするし、
仕事も辞めてしまって、共通も話題も無いし
(まさか、株の話をする訳にもいかないですし)
行ったところで、と尻込みしてしまいます。



学祭では、研究室で3年間(大学、大学院)
おでんともつ焼きのお店を開きました。

集団行動が苦手な私ですが、珍しくこのお店を営業することは楽しめました。
お客の多くは研究室のOBで、呼び込みをしなくてもそこそこの客入りでした。
また、OBは社会人であるためか、代金を多めに置いて行ってくれたので、
利益もそれなりに出た記憶があります。
(その利益は、後日の打ち上げに使った)

店員である私たち学生も、店番をしながらビールを飲んでいて、
昼から内輪で宴会をしているようなものでした。
だから、一般のお客さんは近寄り難い雰囲気だったかもしれません。



同じ研究室の同級生に、もつ焼き屋の息子がいて、
彼が実家であるお店から、調理器具や食材を持ち込んで、
もつ焼き、もつ煮を作り販売しましたが、これがとても美味しくて評判でした。

彼は大学4年で卒業しましたが、その後も彼の実家に協力をお願いして、
翌年以降も器具と食材を提供してもらい、販売を続けた記憶があります。



最近、ツイッターで彼のお店の話題がたまたま出ていたので、
改めて調べてみたら、とんでもない名店であることを知りました。

私は東京の城北、城東方面の酒場に行くことが多いので、
神奈川の酒場事情はさっぱりわかりませんでした。



彼は卒業後、家の跡を継ぐことなく空調機器メーカーに就職しましたが、
残念ながらその会社は既に倒産しているようでした。

同級生の何人かはそこに勤めていたので、
その後、彼らがどうなったのか。
比較的大きな会社でしたが、そういった会社に就職できても、
一生安泰では無い時代になったのでしょう。

私も鬱になって16年勤めた会社を辞め、つい最近5年続けたトレーダーを辞め、
この先どうするのか?他人事ではありません。



そのお店は15時から営業していて、
もつ焼き1本60円、もつ煮150円と格安です。
食べログの総合ランキングの上位に入るようなお店なので
ちょっと行って見たい気がします。
もしかしたら、仕事を辞めた彼が後を継いでいるかもしれません。


しばらくは暇な日々が続きそうですし、積極的に外回りをしようかと考えています。
この季節、外はとても心地が良いです。

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巣鴨の専業さんの話 その4  

これまでのあらすじ

先月の末、巣鴨の専業さんを飲みに誘ったところ、
「酒も弱くなり引退したいと思います。お世話になりました。」との返信がありました。
15年弱の付き合いの有った巣鴨の専業さんとは、
もう一緒に飲みに行くことはないかもしれないと思うと切ない気持ちになりました。

喧嘩別れした訳では無いのだけど、
最後に彼と会った時、朝からお酒を飲んでいると言っていたので、
もう外に出てまで飲みに行く気力もないのだろうなと。

そんな巣鴨の専業さんから聞いた、彼が専業になるまでの話や、
お酒に溺れる生活までを書きました。
巣鴨の専業さんの話 その1
巣鴨の専業さんの話 その2
巣鴨の専業さんの話 その3

■10
2014年5月に上野の専業さん、巣鴨の専業さんと再会してからは、
3ヵ月に1度ほど、定期的に3人で会うようになりました。

上野の専業さんもお酒が大好きで、
下町の酒場を案内してくれるといった、酒場巡りの会でした。
上野、板橋、十条、王子、赤羽、立石、北千住、綾瀬
私が一人でお酒を楽しむようになったのも、上野の専業さんの影響が大きかったです。

そんな3ヵ月に1度の酒場巡りですが、
ある時から、巣鴨の専業さんが遅れてくるようになりました。

この3人で飲みに行くときは、15時頃に喫茶店で待ち合わせをして、
コーヒーを飲みながら1時間ぐらい雑談を交わし、
それから夕方に酒場の開店時間に合わせて喫茶店を出るのが常でした。

しかし、巣鴨の専業さんが、喫茶店での待ち合わせの時間に遅れて来るようになりました。
元々は几帳面な性格で、普段は一番早く来るような人だったので、
そんな事が何度か続きおかしいなと思い始めました。


聞くところによると、前日の夕方からお酒を飲みはじめ、明け方まで深酒をしてしまい、
そのままリビングに寝て気が付くと昼を過ぎている。
待ち合わせの時間が迫っており、慌てて家を出てきたから遅れてしまった。
というのがいつもの理由でした。

この時点で、毎日明け方まで大量に飲酒しているのだと察しが付きました。
それに、彼は自宅で飲むことが多く、おつまみも何も食べないで飲んでいると。
随分と体に悪い飲み方をしているのだなあと思いました。


■11
3年前の丁度今頃、(2015年の10月)いつものように3人で上野ので飲んでいました。
いつもはお酒に強い巣鴨の専業さんが、1軒目で1杯飲んだだけでかなり酔ってしまい、
いつもと違っておかしいと上野の専業さんと共に話していると、
店を出てから真直ぐに歩けなくなってしまいました。

言葉では上手く表すことができないのですが、
体がねじれてしまって歩けない感じでした。
私たち2人ではどうすることもできず、タクシーを呼んで巣鴨の専業さんを
自宅に帰したことがありました。

私は医学的な事は良く分からないのですが、
上野の専業さんが言うには、小脳梗塞を起こして、
運動器官が麻痺していたのではないかと言い、
後日、連絡をとって病院へ連れて行こうということになりました。

その後、巣鴨の専業さんの無事が確認でき、
3人で再会した時に、一度一緒に病院へ行こうと提案したのですが、
彼は大の病院嫌いで、首を縦に振ることはありませんでした。
彼は区の健康診断にすら行っていないようです。


■12
昨年の3月、渋谷で十数名の株のオフ会がありました。
そこに巣鴨の専業さんも来ることなっていたのですが、時間になっても現れない。

30分以上遅れて、やっと現れたと思ったら注文したのはウーロン茶。
予想通り前日深酒して、酷い二日酔いで一切のお酒を受け付けないらしく
オフ会でも浮かない顔をして、そのまま1次会で帰って行きました。

おそらくですが、この頃は1日中お酒を飲んでいたのだと思います。


■13
今年に入ってから、彼とは2度会っています。
1度目は3月の上旬でした。この時も彼は遅刻してきました。
その時、彼との会話で覚えているのは、
「もう、毎月の権利日がいつだかも分からなくなってしまったよ」でした。

彼も優待のクロスをしていたのですが、
その権利日すらも分からなくなってしまうくらい、
お酒漬けの毎日になってしまったのか?と、軽くショックを受けました。

そして、2度目に会ったのは5月の下旬。
阿佐ヶ谷駅前の喫茶店で、いつものように3人で近況などの雑談をしていました。
私が彼に「最近はお酒は何時から飲んでいるんです?」と聞いたら、
「朝からずっと飲んでいる」という答えが返ってきました。

そこまで酷いとは思いませんでした。
でも、私や上野の専業さんが言ったことろで、どうにもならないことなのです。
何となく、凄く残念な気持ちになったのは覚えています。


1軒目は3人で飲んで、2軒目は巣鴨の専業さんと私の2人で飲んで、
何の話をしたかは覚えていないけど、
いつも通り、とりとめの無い会話をして。
それが、彼との最後となりました。
(※書き方はあれですけど、彼はまだ生きていると思います)


■14
9月下旬、いつもは3人での酒場巡りを、上野の専業さんと2人でやってきました。
巣鴨の専業さんとかれこれ15年弱の付き合いだったので、思い出話は尽きませんでした。
(※書き方はあれですけど、彼はまだ生きていると思います)

昔は新興市場が好きで、オフ会ではいつも大声で個別銘柄について熱く語っていた頃が懐かしいと。
10年ほど前までは、もっと太っていたのだけど、
最近はめっきり痩せてしまって別人のようになってしまったとか。


彼の生活が変わったのは、ザラ場の取り引きを止めて、
REITの配当で生活をしてからだと思います。
私や上野の専業さんは、ザラ場の取り引きをするので、
日中お酒を飲むことはありません。


これは、先日も書いたことの繰り返しになりますが、
巣鴨の専業さんは、億を超えるお金があり将来に不安は無い。
REITの配当があり、持ち家もあるので生活に不安は無い。
仕事をしていないので自由な時間もある。

でも、お金があって時間があるが故にお酒に溺れてしまったのではないだろうか。
もし彼が、金銭的にあまり余裕が無くて、
生活のために働かざる負えなかったら、
朝からお酒を飲むなんてことはなかっただろうし、
アル中になることはなかったのかと。


■15
もしも私が彼を同じように、お金や時間を自由に使える立場だったら、
どうなっているのだろうと考える時があります。

こんなコラムがありました。
「株は上質なギャンブル」英文学者・外山滋比古さん
-------------------------------------------------------------------------------------------
高齢者にとって、株式投資が一番の生きがいになる可能性があることに気付いたからです。
定年退職を迎えてリタイアした方々は海外旅行などの余暇を楽しんでおられます。
ですが、それは一過性のものです。やることがなくなれば退屈して、言い方は悪いが、
いずれぼけてしまいかねない。一方、株式投資を始めると、それにはまって、
中には「明けても暮れても株」という人も出てくる。
一種のギャンブルとして生き生きと株式投資をすれば、常に一喜一憂する。ぼけてなんていられません。
~中略~
(株式投資は)その気になれば、90歳や100歳になってもできます。
こんなにいい老化防止の手段はないでしょう。生き生きと取り組むから病気にもならない。
医療費の抑制にもつながる。国の社会保障費も大きく減少します。
~中略~
「ただ、株式投資にギャンブル性があるのも事実。昔から『株はいけない』と言っている人は
ギャンブル性があることを理由にしている。
ですが、ギャンブルは人間にとって極めて有用な精神的刺激なんです。
年寄りが生き生きとするには、良いことばかりでは駄目。それではぼけてしまう。
証券会社など他人任せではなく、自分で銘柄を選んで売買する。
それですごく儲かることもあれば、大きな損を被ることもある。
そうして一喜一憂することが、人間が生き生きと生きていくためには必要なんです。
損しても、それで生活ができなくなるほどでなければ、『治療費代わり』と思えばいい。
多少損をしても、病院に通って薬代を払うよりはずっといい」
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株式投資をすることで、有用な精神的刺激を得ることができるので
人間が生き生きと生きていける。
考えるから老化防止にもなり、病気にもなりにくい。

そういった観点からも、トレードは少しでも続けた方が良いのかもしれません。
もちろん、その時は生活費を賭けたトレードスタイルを改めなくてはならないのですが。
巣鴨の専業さんも、少しでも個別株の売買を続けていたら、
もしかしたら、お酒に溺れることにはならなかったのかもしれません。


【完】

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秋ですね  

今日は台風が来ているようで、風雨が強くなってきました。
でも涼しくて快適です。

夜は自宅でさんまを焼くようなので、ビールを飲みます。
この季節は、いつもキリン秋味を飲みます。
アルコール度数が6%と飲むとガツンと来ます。



先週末の金曜日、中学時代の先生と卒業生2人を含む4人で都内で飲んできました。
飲み放題だったので、生ビール2杯、スパークリングワイン2杯
赤ワイン1杯、カクテル2杯を飲んで、終電近くで帰ってきました。
飲みすぎましたが、飲んだ杯数を覚えているので大丈夫でしょう。




私には子供が2人います。
先生と子供の進路についての話題になって、
先生曰く「子供の進路のことは親がきっちり口出ししなくてはダメだ」と言われました。
私は「我が家は子供に自由にさせていますので、口出しはしません」と返したところ、
「カッコ付けたこと言って・・・」と。

別にカッコ付けたことを言ったつもりでは無く、
子供本人の意志で、自由に学校を選んだ方が良いと思っているのに
ちょっとショックでした。




先生には、20代半ばの一人息子がいます。
大学を出て就職して、既に結婚されています。
先生の奥さんも同じ教員です。

息子さんが大学を入られた時の話を以前聞いたことがあるのですが、
○○大学は気に入らないからダメだ、
○○大学は息子の性格に合わないから行かない方が良い、
という話をしていたことを思い出しました。

また、息子さんは海外留学をしていたことがあって、現地で知り合った外国人女性と付き合っていたそうですが、
外国人との結婚は反対したとも言っていました。

私は、先生の息子さんが少し可哀想に思いました。
大学を選ぶのも結婚相手を選ぶのも、親の意志が入っていて、
(先生は良かれと思って言っているのだろうけど)
この先も、親が生きている間は親の顔色を伺いながら
人生の選択をしていかなくてはならないのかと。




先生や奥さんは教員といった職業柄、
子供に教えなくては、指導しなくては、といった意識が強いように感じます。
私に対しても、そういった接し方のような気がします。

でも、大人(親や先生)が常に正しいと思うことを子供に教えているのだろうか?
仮に正しいとしても、教えることが本当に良いことなのだろうか?
と思う時があります。

大人は子供の幸せを願って、自分の経験から、
失敗しないように成功への最短ルートを子供に歩ませようとします。
だから、色々と口を出すのでしょう。


でも、そんな最短ルートを通った幸せって、
儚いもの、薄っぺらいもののように私は感じます。

自分の頭で考えて、自分自身で人生の選択をして、
その結果失敗するかもしれないし、苦しい思いをするかもしれいなけれど、
そういった経験を経て何かを掴んでいく。
それが人生だと思います。

人生を歩んでいくうえで、成功への近道だけを歩んでいける、
安全地帯だけを歩んでいける、ということはあり得ないと思います。
幾ら大人の適切なアドバイスがあったにせよ。




そもそも、大人達の思っている「人生の成功」というのは、
世代の違う子供達とは違うのかもしれません。

まだ、人生における成功の尺度などは、同年代の人同士でも違ってくるものです。
「出世」「お金」「家族」「趣味」
どの分野で幸せを得るかは、個々人の価値観で異なるはずです。

だから、あまり他人の生き方や、人生の選択に口出しすべきでは無いと思っています。
それが例え子供であっても、一人の人格のある人間ですから。
だからこそ、「我が家は子供に自由にさせていますので」といったのです。




私は、親が子供の進学や結婚相手に口出しることが悪いことだとは思いません。
そういう育て方も一つの方法です。
ただ、私はそういう育て方はしたくない。

子供によっては、自分で決めるのが苦手な人もいるかもしれません。
そういう人は、ある程度レールに敷かれた道を歩んだ方が、
幸せになれる可能性が高いでしょう。

一方で、自分の意志をしっかり持っている子供は、
大人はあまり干渉すべきではないと思っています。
親が大学に行ってほしいと思っていても、子供が働きたいといえば、
子供の意志を尊重すべきで、大人は口出しない方が良いのです。
それで子供が失敗したら、また本人が考えてやり直せば良いだけの話です。



子育てなんて、何が正しくて何が間違っているなんてことは無くて
子供に合わせて色々な方法があり、画一的ではないはずです。
「子供の進路のことは親がきっちり口出ししなくてはダメだ」をいう決めつけは、
何となく違和感を感じました。

私は先生の事を、子供の事を第一に考える良い先生だと思っていたのですが、
結局、教員というは子供に勉強を教えるといった職業柄、
良い学校に行かせるのが目的になっているのでしょう。




良い学校に行っても幸せになるとは限らないし、
良い会社に勤めても幸せになれるとは限らないし、
良い職について大金を掴んだからといて幸せになれるとは限らない。

私の考える幸せは、
「自分の意志で、自分の好きなことをする」という一点に尽きるのです。

だから、子供の進路には口出しをせず、
子供の意志で、子供に選択させたい。
別にカッコ付けている訳じゃないだけどな。



ということで、これから好きなビールを飲んで過ごします。
それが私の幸せなのですから。

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巣鴨の専業さんの話 その3  

その2 からの続きです。


■7

2006年のライブドアショック以降、
私は他の投資家さんと会うことは少なくなりました。

その理由のひとつは、私が株で利益を上げられなくなったからです。
儲かっている時は、色々な人と会って株の話をするのは楽しいのですが、
儲かっていない時は、何となくみじめな気持ちになり、人と会うのも億劫になります。

その後の2008年のリーマンショックで止めを刺され、
投資全般から遠のいたこともあって、
トレーダーさんとの交流は殆ど無くなりました。


もう一つの理由は、2012年から仕事が原因で鬱になったからです。
そして2度の休職後、仕事を失います。
2012年、2013年は投資家さんのみならず、一切の人との交流は無くなりました。
家でずっと寝ているだけの毎日が続きました。



2014年。私は鬱から回復して、職を探すことになります。
生きる気力も少し湧いてきて、少しでも生活の足しになればと、
しばらくやめていた株式投資も再開することにしました。

それを機に、久し振りに上野の専業さんにメールで連絡を取り、
仲の良かった巣鴨の専業さんと共に3人で会うことになりました。

2014年5月、日暮里谷中のルノアールで再会。
鬱であったことなど何も連絡もせず、一方的に音信不通にしてしまったという
不義理を働いたにも拘わらず、2人は私を温かく迎えてくれました。

この時は、まだ巣鴨の専業さんも元気そうでした。
お酒が好きな人で、毎日飲んでいたようですが、
人並みに嗜む程度だったと思います。



■8

「ニックさんは良い時期に具合が悪くなって、勿体ない事をしたね」
久し振りに再会した上野の専業さんは私に言いました。

2013年の第2次安倍内閣では、新たにデフレ経済を克服するために
2%のインフレターゲットが設定され、それに伴い大胆な金融緩和措置を講ずるという
金融政策が発表されました。

これにより株式相場は大きく上昇し、投資家たちに大きな利益をもたらしました。
アベノミクス相場です。

2013年、私は鬱の療養のため精神病院での3か月の入院生活を余儀なくされて、
株式投資どころではありませんでした。
上野の専業さんには「勿体ない」と言われましたが、
それは人生の巡り合わせなので仕方の無い事です。


巣鴨の専業さんは、リーマンショック以降、
個別銘柄の株式投資はスッパリとやめ、
ずっとREITの配当金を得る戦略を続けていました。

そして、このアベノミクスによる金融緩和によりREIT価格は上昇し、
2013年は3000万円を超える利益が出たそうです。
最も、REITでインカムゲインを得る戦略であるため
3000万円の利益というのは、含み益も含んでいる額です。

それでも、REITを保有するだけで生活ができるのですから、
鬱で仕事を失ったばかりの私からしたら、羨ましい限りの話でした。



■9

「毎日することが無くて暇だよ」
巣鴨の専業さんはいつも言っていました。

私も上野の専業さんも、個別銘柄を売買するスタイルなので、
9時から15時の立会中は、それほど暇ではありませんでした。
ただ、巣鴨の専業さんは、ずっとREITを保有し続け、
配当金が支払われるのを待つだけなので暇だったのでしょう。

時々、セクター内で利回りの低下した銘柄と、
利回りの高い銘柄の入れ替えをしているようでしたが、
1日中パソコンに張り付いているということはなさそうでした。


そんな巣鴨の専業さんに、どんな1日を送っているかを聞いたことがあります。
朝は10時過ぎに起きて、TVを見たり、本を読んだりして時間をつぶし、
夜になったらお酒を飲んで寝る、といった毎日を送っているようでした。
少なくとも5年前までは、人並みの生活を送っていたようです。

投資家はみんなそうだと思いますが、安く仕入れることに喜びを感じます。
良く彼は、ネットでお酒のセール品を見つけ、大量に購入していました。
焼酎、日本酒、ワインなど、アルコール度数の高いお酒を好んでいたような気がします。

あるとき、韓国のマッコリを大量に購入したらしく
毎日、マッコリを飲んでいると。
たまに焼肉屋へ行って飲む分には良いけど、毎日飲むのってどうなの?
と思ったけど、彼は酔えれば何を飲んでも良いような感じでした。


その4 に続く

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巣鴨の専業さんの話 その2  

その1 からの続きです。


■4

証券会社を退職した巣鴨の専業さんは、その後、税理士事務所に勤め始めました。
彼が税理士を目指していたかは分かりませんが、
金融の知識を生かした転職だったようです。
意外とこういうパターンは多いようです。

証券会社を辞めたので、株式の売買の制約も無くなり、
自身で株式投資をすることもできるようになりました。
仕事をしながら株式投資をする兼業投資家生活が始まりました。


ところが、その税理士事務所も2~3年で辞めることになります。
とにかく激務だったようです。

2月~3月の確定申告の時期は、
自分の受け持つクライアントの申告書類を期日までに仕上げる必要があり、
その時期に、風邪やインフルエンザで仕事を休もうものなら、その後が大変だと。

休んでいる間は、他のメンバーが仕事をしてくれる訳ではないので、
徹夜を続けてでも仕事の遅れを挽回する必要があります。
確定申告には期日があるので、遅れは許されないのです。

そんな激務に嫌気が差してしまい、
事務所を辞めて専業投資家になることになりました。
おそらく30代後半の事だと思います。

証券会社でも、税理士事務所でも、どんな仕事でもそうですが、
働いてお金を得るというのは大変なことです。
それは投資で生活費を稼ぐということも同じです。

長く続けるためには、好きであるとか、興味があるとか、
そういう基準で仕事を選ぶしかないのでしょう。



■5

巣鴨の専業さんと初めて会ったのは2004年のことでした。
私が33歳、彼が41歳
その時、彼は既に専業投資家になっていました。
彼は今年55歳なので、専業投資家生活を14年も続けているのです。

彼は既婚歴の無い独身です。
証券会社に勤務時代、巣鴨に中古マンションを購入し、以来そこにずっと住んでいます。
だから、ここでは巣鴨の専業さんと呼んでいます。

2000年11月までITバブルと呼ばれる景気拡張期がありましたが、
そのバブルが崩壊し、2002年1月まで景気は低迷します。
これをデフレ不況と言います。

しかし、2003年ごろから、バブル崩壊後ずっと下落傾向だった地価が、
都市部を中心に回復の兆しを見せてきました。
この年は、J-REITの上場のラッシュがあったり、
不動産流動化銘柄を中心に新興市場も賑わいを見せました。


その新興市場の堅調な相場に乗って、巣鴨の専業さんの資産も、
あっと言う間に1億円を超えました。

私が現物の株式投資を始めたのは1998年からですが、
1998年~2002年までの5年間の利益の総額は10万程度でした。
(マイナス年も2度有り)

しかし、この2003年は1年間で数百万円の利益をあげることができたのです。
2003年~2005年の3年間は、みんなが儲かるような相場がしばらく続き、
夢のような時代でした。



■6

2006年1月16日、証券取引法違反容疑で、
東京地検特捜部がライブドア本社などに強制捜査を行いました。
これを受け翌1月17日は、新興市場銘柄が軒並み売られ大幅安になりました。
この株式市場の暴落をライブドアショックと言います。

これまで、上がるから買う、買うから上がると言った新興市場の好循環が
突如として逆回転を始めたのです。

巣鴨の専業さんもこの暴落に巻き込まれ、多くの資産を失ったそうです。
そして、これを機に株式の短期売買はやめることになりました。
それでも資産は1億円程度は残っていたようで、
それを元にREITでの資産運用を始めました。

REITの利回りは4%程度で、税引き後の配当は手取りで約300万円強/年の収入。
持ち家に住み、かつ独身であることから、生活に不自由することは無いようです。
元々派手な生活をするような人ではないですし。
この生活は、2018年の現在も続いているようです。



その3 に続く

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巣鴨の専業さんの話 その1  

今日は雨が降っています。
なんとなく家に一人でいると陰鬱な気持ちになりそうなので、
妻子の買い物に付いて行くことにしました。

私は特に買いたいものも無く、一緒に昼食を食べた後、
一人喫茶店に入ってブログを更新しています。

もう二度と会うことがないかもしれない、
巣鴨の専業さんの事を少し書いてみます。



■1

巣鴨の専業さんと会ったのは、今から13~14年前のことです。
インターネットの株式掲示板で知り合い、
そのオフ会で会ったのが最初だと記憶しています。

私より8歳年上の今年55歳。
元は中堅証券の対面営業をやっていました。

彼は大学卒業後、ある証券会社に入社しました。
(少し前に証券業界は合併が相次ぎましたが、まだ当時のまま残っている中堅証券です)
証券会社に就職したのは、学生時代から投資が好きだったからです。

入社したのは折しも、これからバブルが始まろうとしていた時代でした。
その当時、彼の会社のボーナス支給の算定方法は、
自分の顧客から得た売買手数料の10%(だったと思う)といったインセンティブだったので、
バブル景気時にはボーナスは軽く100万円を超えていたと言っていました。


1999年の金融ビックバン以前の株式の委託手数料は
どの証券会社でも同じで固定されていました。
(当時の大蔵省(現金融庁)が決めていた。護送船団方式
バブル景気当時は、まだインターネット環境が普及しておらず、
ネット証券も存在しなかったので、当時の委託手数料は今と比較すると高く、
売買代金にもよりますが片道で1%、往復で2%程度でした。

しかし、バブルが崩壊し、証券業界は冬の時代へと突入します。
株式投資をする人も減り、委託手数料は激減。
そんな中、投資信託などの売りたくない商品でも売らなくてはならない日々が続きます。

みんながみんなとは言いませんが、
証券マンは、客に大きな損をさせても屁とも思わないような
心臓に毛が生えたような人でないと長くは勤まりません。

巣鴨の専業さんは優しいところがあったので、
そういった商品を無理に売ることができなかったのでしょう。
早い話、投資が好きで投資知識はあても、証券営業には向かない人でした。


■2

その証券会社では、毎日朝礼があって、
営業マン一人一人の前日の売り上げがみんなの前で発表されていました。

鈴木1000万円、田中600万円、高橋300万円、巣鴨、お前はマルだ(0円のこと)
巣鴨の専業さんいわく、最後の方(退職を決意した頃)は入社1年目の新人にも
売り上げが負けていたと。


マルの日々が続くのも辛かったそうですが、それよりもっと辛いこと、
それは追証の徴収に行くことでした。

対面営業の証券マンは、追証の徴収には自身が行くことになります。
それは今も変わりないようです。
私はネット証券のように、取り立て専門の部署があるのかと思っていました。

ネット証券では、あらかじめ入金した余力の範囲でしか株式の注文はできませんが、
対面証券では、売買が約定した4営業日以内に入金すれば良いのです。

巣鴨の専用さんが勧めた株を顧客に購入させ、4営業日目になっても入金が確認できない。
その株が上がっていれば反対売買してしまえば良いのですが、
大きく下げっている。
そんな時に取り立てに行くのは辛かったそうです。

追証の徴収もそうです。
損をして信用余力が減ってしまったのですから、そんな人のところへお金を徴収しに行くのは辛い。
私でも想像がつきます。

ある証券会社では、追証を徴収しに行くことを、
支店内の隠語で「お葬式に行く」と言っているそうです。


■3

昔の証券会社は、パワハラで満ち溢れていました。
今でこそ、バックオフィスと接客ブースは分かれていますが、
昔はワンフロワーで仕切りも無く丸見えのところが殆どでした。

壁一面に大きな証券株価のボードがあって、
仕事中の証券マンも客も、同じボードを見ていました。

ある時、ある証券会社で、証券マンが上司とおぼしき人に
四季報で頭をひっぱたかれている光景に遭遇したことがあります。
当時はそんな光景はどこにでもありました。
今だったらパワハラと騒がれるでしょう。

巣鴨の専業さんの支店では、朝はみんな自分のデスクの前に立って
電話営業を始めるそうです。
そして注文を取ることができた人から順に、自分の席に座ることができる。
巣鴨の専業さんは、座ることができない日もあったそうです。

証券業界の話はありませんが、投資用マンションの電話営業で、
出社したら電話を持つ左手と電話機の受話器をガムテープで固定するといった話を
聞いたことがあります。
受話器を一瞬たりとも置くことが許されない。


今はだいぶ環境は改善されたかもしれませんが、
金融、不動産の営業だけはやりたくないです。


投資は好きだけど、お客に投資商品を売るのは好きでない。
彼は証券会社を辞めることになりました。
30代半ばのことだったと思います。

その2 に続く

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