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夢職ひきこもりの日々

40歳で鬱で職を失いました。2014年1月~2018年10月までトレードで生活費を稼いでいましたが、稼げなくなり完全に夢職なりました。酒場巡りをライフワークとするアル中予備軍。無業期間が長くなりすぎ再就職はあきらめました。

16年間の会社員生活について その23(最終回)  

今回で最終回になります。
長くなりましたので、お時間がある時に。

16年間の会社員生活について その1~21はこちらから
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2012年9月頃(入社16年目 40歳)~11月末(退職)

2度目の休職をして5ヵ月程が経過しようとしていました。
この時、私が何をしていたのか?何を考えていたのか?
当時の記憶はほどんどありません。
鬱の時は思考が停止しているので当然かもしれません。

ただ、同じ仕事に戻ることは考えられなかったので、
会社を辞めることをぼんやりと考えていました。

しかし、会社を辞めてしまったら生活はどうなるのか?
といった問題は全く解決していませんでした。
でも、元の会社に戻ることは絶対に嫌でした。



夏が終わりかけたある日のこと、
妻に仕事を辞めたいという話をしました。
妻は了承してくれました。
無理をして仕事をして、ここ10年ほどはずっと精神的に不安定で
塞ぎ込むことが多かった私といるよりは、
仕事を辞めて、普通の精神状態に戻って欲しいと思ったようです。

それから数日後、会社に電話をしました。
直属の上司であるM課長と話をして、退職したい趣旨を伝えました。
M課長は「N部長と相談してみますと」いって電話を切りました。


その翌日か、数日後かは定かではありませんが、
M課長から電話があり、あさりと退職は認められました。

鬱を患い休職しており、会社にとってお荷物社員であることは重々承知していましたが、
何も引き止められることが無かったことに、一抹の寂しさを感じました。



話は飛びますが、
退職して無職になってからこのブログを始めたのですが、
退職して3年が経過したときに、退職した時の記録を残したいと思い立ち
ブログの記事にしました。

退職3周年記念 その1
退職3周年記念 その2
退職3周年記念 その3
退職3周年記念 その4
退職3周年記念 その5

今現在、退職して8年になりますが、当時の記憶が薄れてしまい
思い出すことができないことが多々あります。
そこで、5年前に書いた記事の一部を修正し、引用することにしました。
以下は、2012年9月頃に上司に退職を申し出てから
2012年9月末に退職するまでの出来事です。

---------------------------------------
■退職願いを書いて上司に渡す

私の場合は、鬱で休職中でしたので、
上司に直接退職願を渡すことはありませんでした。

直属の上司である課長に
「辞めることを考えています」と電話と話したところ
「部長に相談します」との返事があり、
それだけの会話で終わりました。

だから、電話で口頭により自分の意思を伝えただけで
退職願いと言うものは書きませんでした。


■上司に引き留められる

直属の課長に退職の相談をして
「部長に相談します」との言われて電話を切ったのですが、
確か、その日のうちに「部長から退職の許可がでました」
との電話がありました。

鬱を患っていたので、引き留められることは無いだろうとは思いたものの
あまりにも、あっさりと許可がでたので
拍子抜けしてしまいました。

と同時に、16年間、苦しい思いをして働いてきた自分は何だったのだろう?
といった寂しい思いも込み上げてきました。

会社という組織は、自分が思っていたよりもずっと冷たいものでした。
元々私は、優秀ではありませんでしたので
引き留める理由が全くなかったのだと思います。

退職の許可が出てからは、会社から書類が送られてきて、
色々な書類を書いて(おそらく、同業他社には就職しませんとかの誓約書など)
印鑑を沢山押して、それを送り返して手続きは終了だっと思います。


■送別会

鬱だったこともあって、人と会いたいという気持ちには全くなれませんでしたが、
色々お世話になった人もいたので、
お礼や挨拶をしたかったなと、今となっては思う事があります。

送別会自体には興味はありませんが、自分にとっては不本意な形で、
会社を去ってしまったことは残念でした。

そういった意味では、鬱が良くなるまで休職して、もう一度職場復帰して、
落ち着いてから退職した方が良かったのかもしれません。

でも、もう会社とは関りを持ちたくない、一刻も早く辞めてしまいたい
という気持ちも強かったので、休職中に辞めたのは良かったようにも思えます。


■仕事の引き継ぎ

当時は2つの仕事をしていました。
1つの仕事は、私一人の業務でしたが、一区切りついた状態で、
今後継続するか、打ち切るかの審議中でしたので
特に引き継ぎの必要はなかったと思います。

もう1つの仕事は、他の部員から、一部の業務を引き継ぎ途中の仕事だったので
私の休職中に、既に他の人に変わっていたと思われます。

といった感じでしたので、
引き継ぎ業務をしなくても、困る人はいなかったと思います。


■私物の整理

ずっと休職中でしたが、会社には、自分の机の中やロッカーには、
仕事の資料などが残っていました。
それらの私物を整理するために、人が居ない日曜日を見計らって、
会社に出向いて私物の整理をしました。

不要と思われる、業務上の資料をシュレッダーにかけて、
パソコン内のデータを消去して、最後に更衣室のロッカーに入っていた、
作業着と作業靴をゴミ箱に捨てました。

作業着とかは、会社に返すものだと思っていたのですが、
数年前、私より先に鬱で退職した後輩が、
そのようにしていたのを覚えていたのが役に立ちました。
(後輩に聞いた所、上司に捨てる様に指示されたとのこと)

日曜日だったので、誰も居ないだろうと思って作業をしていたのですが、
途中から、入社したときに同じ部署で働いていたSさんが
休日出勤だったようで、出くわしてしまいました。
Sさんは、とても優しい人で、何でも相談に乗ってくれるようなタイプの人でした。

事情を一通り話、退職することになりました、といった話をしたと思います。
ただ、当時は鬱だったので、どんな事を話したかとか
記憶があまりありません。
「この先、がんばれよ」と最後に声を掛けられたような記憶があります。

とても良い人だったのですが
会ってとても気まずい思いをしたのだけは覚えています。

会社での私物の整理は、3時間程で終わったと思います。
これが、私が最後に会社に出社した日となります。


■社員証の返却

私物の整理の際に、社員証などの重要なものだけは
自宅に持ち帰りました。
その後、退職日を待たずして、
郵送で上司宛に返却したと思います。

この辺りの事も、良く覚えていません。
とにかく、その当時は、精神薬もたっぷり飲んでいたし
記憶が曖昧です。


■退職日

11月30日付けで退職しましたがその日は自宅でいつもと同じ様に過ごしました。
(おそらく、鬱が酷くてずっと臥せっていた)
特別に会社から電話が掛かって来ることもありませんでした。

一夜明けて12月1日になりもう会社員では無く、無職になったのだなあと
思ったのは覚えています。

鬱で療養中でしたので、
仕事から解放された喜びも全くありませんでした。
むしろ、本当に辞めてしまったけど、それで良かったのだろうか?
この先、家族を養っていけるだろうか?
といった、不安の方が大きかったです。

退職してから暫くは、自分の選択した道が間違っていたのではないか?
と自分を責める日が続いきました。会社に戻る夢も良く見ました。
とにかく、辞めてから暫くは、精神的にかなり辛かったです。

---------------------------------------


以上が、16年間勤めた会社を入社してから退職するまでの話です。
23回に渡って書きましたが、色々な出来事が思い出されて
とても懐かしい気持ちになりました。
どんなに辛いことでも、時が経てば美化されてしまうのは
不思議なものです。


入社したての頃は、希望に満ちていて
それが現実を知るに従って、精神がどんどん病んでいく。
どこかで生き方を修正する(仕事に対する考え方を変えたり、転職を真剣に考えたり)
ことはできなかったのか?と思うときがあります。

しかし、仮に当時に戻ることができたとしても
それはできなかったような気がします。
私は元来そういう人間なのです。



16年間の会社員生活について その1~その23までは、
時系列でその時々の出来事を書いたのですが、
最後に私にとっての会社員生活とは何だったのか?
という全体的なことを書いて終わりにしたいと思っています。

まだ書こうと思うことは全く決まっていないので、
少し時間がかかると思います。


つづく
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16年間の会社員生活について その21  

16年間の会社員生活について その1~20はこちらから
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2012年4月(入社17年目 40歳)
退職まであと8ヵ月

入社17年目の4月を迎えました。
1ヵ月ほど休職をして精神病院に入院しましたが、鬱は全く良くならず。
にも拘わらず、なぜ復職したのか。今となっては理解に苦しみます。
生活の為に早く仕事に戻って、お金を稼がなくてはならないと考えたのだと思います。

休職中も、仕事を辞めてからもそうですが、
私はお金のことがとても心配でした。
幾らかの蓄えはありましたが、当時はまだ2人の子供も小さく
今でこそ妻は働きに出ていますが、彼女は結婚して以来ずっと専業主婦でしたので、
これからの生活のことを考えると、収入が途絶えてしまうことは
恐怖以外の何物でもありませんでした。
そのことが、一層鬱を悪化させたようにも思えます。


復職してからは、この4月から変わった新任のN部長と、
直属の上司であるM課長と3人で面談をしました。
M課長が、私の病気の経過や、これまでの業務の事を
新任のN部長に説明していたと思いますが、
私は抜け殻のようになっていて、殆ど発言することはありませんでした。
とにかく辛くて、早く面談が終わって欲しい。そのことは覚えています。


復職後は半日勤務を2週間続け、それに慣れたら1日勤務を2週間続け、
それができたら、通常勤務に戻るといったものでした。
この4週間に渡る、半日勤務、1日勤務の期間中は会社に慣れるという目的のため
無給(休み扱い)でした。

半日勤務の2週間は、苦しいなりになんとか乗り越えました。
といっても、休職前よりも精神状態は確実に悪化しており、仕事は全くできませんでした。
ただ、会社へ行って時間を潰している毎日。

良く行ったのは、屋上へとつながる非常階段です。
屋上への扉は施錠されていて誰も来ることはないので、
そこの階段に座って、ひたすらじっと時間を過ぎるのを待っていました。

しかし、ある時M課長が、私がいなくなったと大騒ぎして探し回ったようで、
「どこに行っていたんだ」と怒られことがありました。
私は調子が悪くてトイレに行っていましたとでも誤魔化したように思えますが、
その時のことは明確には覚えていません。


2週間の半日勤務が終わり、1日勤務になってからは更に地獄のような日々でした。
何もする気が起こらない、体が動かない、ずっと固まっていたいのですから。
半日勤務の時は、ほどんどの時間を階段で過ごしていいましたが、
1日勤務になり、8時間何もしないで過ごすことはとても苦しかったです。

それでも、1週間が過ぎ、2週目も1日か2日経ったところで、
もう、これ以上会社へ行くのは無理だと思い、再休職することを決断しました。
この時のことも、あまり記憶にはないのですが、
会社に常駐している産業医の先生に相談して、
精神科へ行き診断書を書いてもらって、再休職したように思います。


上司のM課長には、「これまでずっと復職に向けて頑張って来て、あと3日で復職できるのに」と
とても残念がられたのを覚えています。
でも、仮に復職できたとしても、会社では何も出来なかったことには変わりありません。
もう限界でした。
とにかく休みたかった。何もしたくありませんでした。


その22 に続く

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16年間の会社員生活について その20  

16年間の会社員生活について その1~19はこちらから
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2012年1月頃(入社16年目 39歳)~2012年3月(入社16年目 39歳)

前回書きましたように、眼瞼痙攣という目が開かなくなる病気に加え
うつ病も酷くなり、かろうじて会社へは行けたものの仕事にはなりませんでした。
会社へ行くときに自転車で行くのですが、眼瞼痙攣の症状で
太陽の光が眩しくて、眼が開け辛かったことを覚えています。


会社に出社しても無気力で何もする気が起こらず、
普段いるオフィスから抜け出して、実験設備のある研究棟の空き部屋へ行き
横になって目をつぶっていました。
ただ、会社に通っているだけの状態でした。

ある時、職場の飲み会があって、その時不運にも部長の隣の席になってしまいました。
嫌だな。最近は仕事を全然していないし、何か説教をされるのかなと身構えていたら、
「ニックさんはよく頑張っているよ」と予想に反して優しい言葉をかけられ、
その瞬間に涙腺が崩壊し、涙がボロボロとこぼれだし、
恥ずかしくてトイレに駆け込んだことを覚えています。
(40歳になろうとしている大の大人が、大勢の前で泣くなんて・・・)

こんな感じで、完全に精神が崩壊していました。


にも拘らず、私がかかっていた会社から紹介された精神科の主治医は
辛さや苦しさを訴えても、これまでと同じような処方しかされませんでした。
そして2012年の3月、一度目の休職をすることになりました。
その時の状況は良く覚えていないのですが、体調が悪く会社を休んだものの、
自宅でもいてもたってもいられなくなり予約外で精神科を受診。

私の担当医が不在の日で、院長先生が急遽診察して下さって、
そのクリニックと提携している精神病院に、その日のうちに入院したのだと思います。


初めて精神病院に入院しましたが、その時のことはあまりよく覚えていません。
主治医は30歳前後の若い先生でしたが、あまり話を聞いてくれず
信頼できるような人ではありませんでした。

結局、2週間ぐらい入院して、直ぐに退院したような気がします。
おそらくですが、先生も信頼できず、病院の居心地も悪く、
自分から退院を願い出たのだと思います。


1ヵ月ほど休職して、2012年4月(入社17年目 40歳)から復職することになりました。
まだ、仕事に戻れる状況ではありませんでした。

その21 に続く

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16年間の会社員生活について その19  

16年間の会社員生活について その1~18はこちらから
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2011年4月頃(入社16年目 39歳)~

N部長直属のプロジェクトは終わる方向に進んで行いき、
それと並行して新しい業務を担当することになりました。

新しい仕事は、射出成型の際の樹脂の流動を解析をする仕事で、
1日中パソコンに向かってシミュレーションをしていました。
そのため、酷い眼精疲労、肩こり、腰痛と体がボロボロになり、
それに伴って鬱も酷くなりました。


特にずっとパソコンに向かい続け眼を酷使していたせいか、
眼の奥が激しく痛み、また、異様に乾いたり、眩しさを感じたり、
酷い時には眼が開かなくなりました。

あまりにも調子が悪いので眼科に行くのですが、
眼精疲労、ドライアイなどと診断され、
眼を休めたり、点眼剤を差したりしましたが一向に良くなる気配はありませんでした。

また、私は近眼で眼鏡を掛けていましたが(現在は老眼が進んで掛けていない)
度数が合っていないかもしれないということで、遠近両用メガネを含め
新たに何本も眼鏡を作りました。
これも徒労に終わりました。


原因が分からず、症状も良くならなかったので
眼科は大学病院を含めて、覚えているだけで6ヵ所に掛かりました。
そのなかのある眼科で、眼瞼痙攣という病気かもしれないと言われ、
お茶の水にある井上眼科を紹介されました。
そこの神経眼科外来で眼瞼痙攣であることが確定しました。

眼瞼痙攣の詳細はこちらです。
日本眼科学会 眼瞼痙攣

症状はこちらにも書かれているように、
まぶしい、目が異常に乾く、目の中がゴロゴロする、眼が開かなくなるなどです。
あとはピントが合わずクラクラするといった症状もありました。

これらの症状は、特にストレスが生じる時に酷くなり、
例えば上司と話をするときなどは、眼が自然に閉じてしまい、
指で瞼を上げながら会話をしていました。
眼の奥の痛みも酷くて眠れないぐらいでした。

この病気の原因は大脳にある運動を抑制するシステムの機能障害と考えられているようです。
簡単に言えば、脳の誤作動です。
この原因はまだよくわかっていないようで、完治はしません。
特に薬も無く、対処療法しかありません。
眼が開かない症状にはボトックスの注射を眼の周りに打って
ボツリヌス菌により緊張している筋肉を麻痺させて症状を改善させました。

眼が渇く症状に対しては、ドライアイの治療にも用いられる
点眼プラグ(下涙点を塞ぐ)を提案されましたが、
人工涙液(ソフトサンティア)や、ドライアイ治療薬(ティアバランス、ジクアス)の
点眼剤を差して凌ぎました。


眼瞼痙攣という聞きなれない病気にかかってしまい、不安になりネットで調べると、
この病気は完治することは無く、進行性の病気で、いずれは目が開かなくなってしまう
(開眼失行:意図的に眼を開けられなくなる)といった事実を目の当たりにして、
酷く落ち込んだことを覚えています。


しかし私の場合、幸か不幸かあれから10年経ちますが、症状は進行することなく、
仕事を辞めた後から徐々に回復していきました。
現在は、完治はしていないものの寛解しており、目は普通に開きます。
しかし、パソコンを長時間したり、強いストレスを感じるような時は、
心持ち瞼が重たくなり、眼の周りがギュッと閉じるような感覚があります。
目の渇きは良い時は良いのですが、ダメな時は頻繁に点眼剤を差します。
眩しは殆どありません。
現在は、日常生活を送る分には全く支障は全くありません。


ストレスからとんでもない病気になってしまいましたが、
この病気を患ってから「もうパソコンに向かう仕事はできないかな」と思い、
退職することを考え始めたように思います。

その20 に続く

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16年間の会社員生活について その18  

16年間の会社員生活について その1~17はこちらから
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2008年4月頃(入社13年目 36歳)~2010年3月頃(入社15年目 38歳)まで
しばらく携わってきた研削の仕事から離れることになりました。

N部長のアイデアで、光硬化樹脂で部品を成形する製造方法の
開発をすることになりました。
N部長直属のプロジェクトでメンバーは私一人でした。

しかし、いつもように全く興味が持てません。
本当につまらない毎日で、生活費を貰うために会社に通っているようなものでした。
仕事が嫌で嫌でたまらなく、会社に行くのが辛かったです。
この頃は、朝自宅の玄関を出るとき、えずいて吐きそうになりました。
鬱も酷くなり、仕事中も意味も無く自然と涙がこぼれてきて
会社のトイレの個室で良く泣いていたのを覚えています。

N部長はあまり優秀な人ではありませんでした。
自分の思い付きで色々なことをやっていましたが、
実現の可能性が低いことばかりやっていました。
彼の趣味でやっているような感じでした。

担当している私は、初めからこのプロジェクトは失敗に終わるなと
思っていたのですから、先は見えていました。



これまでの私の業務は、
既成の加工機を使って加工法の開発を行ってきたことが殆どでしたが、
この時は、成型用の設備を選定し、工作機械メーカーから購入した上で
その設備を改造するための設計なども行い、かなり大変の業務でした。
設計などはやったことが無かったので、後輩に色々と聞きながら勉強したのを覚えています。
メンバーは私一人なので、設備改造の設計から、部品の加工実験、評価まで
全てをこなさなくてはなりませんでした。


部長の発案したプロジェクトでしたが、
直属の上司であるM課長も、私と同じようにこの加工法の実現性は低いと感じたようで、
プロジェクトを中止させるため、、「この加工法では部品を安定供給できない」といった
データを取るように、裏で指示を出してくれました。

私はそのデータをこつこつ取って、
このプロジェクトは終わる方向へと進み始めました。



私の直属の上司であったM課長は、私より4~5歳年上でとても優秀な人でした。
機械設計をずっとやってきて人で技術的にも詳しく、人柄もとても良かったです。

自分の出世や成果を第一に考える上司が多い中
彼は部下のことを第一を考えてくれる人でした。

だから、彼は上司である部長にもゴマを擦ることは一切なく、
間違いと思ったことはきちんと進言して
激しく議論しているところを何度も見かけました。

後にも先にも、上司に物申すことのできる人物を見たのは
彼ぐらいだったと思います。



M課長は高等専門学校卒でしたが、課長まで出世しました。
私の会社は実力主義で、出世には学歴はあまり関係ないように思えました。
私が辞めた後、本部長になったM.K.さんも高専卒でした。
学閥なども無さそうで、成果を出せば報われる。実力主義の会社でした。
そういった意味では、とても風通しの良い会社だったと思います。

私が就職活動をしてた時、N社も候補にあったのですが、
研究室の講師であったN先生に、N社は学閥があるからやめた方が良いと言われました。
今はどうか分かりませんが、当時は財閥系の会社は
(三井、三菱、住友、安田)
一般的に学閥が強く、旧帝大を卒業していないと出世はできないと言われていました。


まあ、40歳平社員※で終わった私には全く関係ない話ですが。
(※課長代理でしたが、30歳を超えるとみんな課長代理)

その19 に続く

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16年間の会社員生活について その17  

16年間の会社員生活について その1~はこちらから16
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2003年4月(入社8年目 31歳)~2007年3月頃(入社12年目 35歳)までは
研削加工という、金型を作るために金属を削る加工法の開発をしていました。
当時の記憶はもう薄れてしまって、印象深かったことはあまり覚えていません。
仕事を辞めた時に、私的な記録や資料の大半は捨ててしまったことが悔やまれます。

私の仕事は研削加工機を使って実験をしていたのですが、
実験用の専用機が無かったので、生産用の設備を借りて実験をしていました。
しかし、生産が忙しくなると日中設備を借りることができず、夜間に出勤していました。



生産設備が使われているのは9:00~19:00頃まででしたので、
夜間の勤務の時は、19時頃から明け方に仕事の切りがつくまで働いていました。
大体、5時過ぎに帰っていたと思います。

日中は千人以上働いている事業場でしたが、私の働いている棟は夜中は誰もいなくなり、
一人で働いていることがとても心細く感じました。
夜中の2~3時頃に、懐中電灯を付けた警備員の人が見まわりに来るのですが、
いつも突然来るのでびっくりしました。
警備員の人は4人ぐらいいて、交代で勤務しているようでした。
その中で、土方さん(50代ぐらい)とは特に仲が良くなり、いつも雑談を交わして楽しかったです。

土方さんは競馬が好きで、私が金曜日の夜間の勤務の時は、
土曜日の朝、会社正門の守衛所で挨拶して帰ろうとすると、
「ちょっと競馬新聞を買ってきてくれ」と頼まれて、近くのコンビニに新聞を買いに行かされました。


加工の実験は、設備に加工物をセットすると1~2時間自動加工するので
その間は待ち時間となります。
日中勤務の時は、空き時間はレポートを作成したり、計画を立てたり、特許の発案をしたりと
仕事をしなくてはなりませんでしたが、夜中勤務の時は同僚の目が無いので、
インターネットをしたりして遊んでいました。
だから日中勤務の時より楽でした。


空が明るくなり、世の中が動き始める頃に
自宅に帰れるのが嬉しかったことを覚えています。
家に帰ってからは、缶酎ハイを1~2本飲んで布団に入って眠る。
これは幸せな気持ちになれました。

9:00頃~16:00頃まで寝ていたと思います。
当時は集合住宅に住んでいて、午後になると学校から帰ってきた子供達が
近くの公園で遊び、箱型ブランコの音がうるさくて目を覚ましてしまいました。
昔から音には敏感だったようです。


その18 に続く

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16年間の会社員生活について コメントへの返信 2  

一読者さん コメントありがとうございます。
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私は自営業一筋なので大きな組織で働いた経験は無く,
そういう意味での組織内での人間関係の苦悩は分からないのですが、
お金のために興味も無いことを心を押し殺してやり続ける苦悩というものは
存分に味わっており共感しております。
--------------------------------------------------------------
一読者さんは自営業一筋なのですね。
私は会社員と(自称)専業投資家と、無職をやってきました。
ここでは会社員時代の辛かったことばかり書いていますが、
雇われといった身分で良いこともそれなりにありました。

一番良かった点は収入です。
仕事をしようが仕事をしまいが、毎月同じ額の給与が支払われるということは
安定した生活が送れてとても有難かったです。
鬱を患い、仕事の効率が落ちたからと言って給料が減額されることもありませんでした。

もう一つは、社会とのかかわりです。
私は人付き合いが苦手なので、人や社会とのかかわりは全く無くても良いと思っていましたが、
同僚と休憩時間に交わす何気ない会話や、仕事終わりに同僚と飲みに行ったりすることは
それなりに生活に潤いを与えてくれました。
無職の今は、そいういった関りは皆無になりました。


「お金のために興味も無いことを心を押し殺してやり続ける苦悩」というのは
誰しもが抱えている問題で、多くの人が解決できないことです。

なぜ、お金を稼ぐのか?と考えた時に、一番の目的は生きていくためです。
生きるためには食糧を得て、雨風を凌げる住居を確保し、
外を歩くための衣服や靴が必要です。
自給自足もできる部分もありますが、できないものは買うしかありません。
だから、自分の労働力を提供してお金を得るのです。

ですから、先日書いたNさんのように用地買収で多額の補償金得たり、
宝くじが当たったり、実家が大金持ちだったり、
といったような幸運に恵まれた一部の人を除いては、
生きるために嫌でも働く必要があります。
その中で、苦しくない仕事を探す(見つける)しかありません。



ST Rockerさん はじめまして
コメントありがとうございます。
--------------------------------------------------------------
僕も同じく、大学院を卒業してから会社員ですし、同じ技術系(ただし化学で、1982年卒ですが)
ですので、書かれていることを自分のことのように読ませていただきました。
僕もありとあらゆる苦労をしました。ニックさんの場合、ずいぶん長時間労働が多かったですね。
そして僕も、一時期大病を患った(がん)ので、
健康上のことで綴られていることも、身に染みて読ませていただきました。
--------------------------------------------------------------
私は機械で1996年卒です。
ST Rockerさんは80年代から働かれていたようですので、
70年代まで続く高度成長期のモーレツ主義的な働き方が残っていたり、
バブル景気での忙しさだったりで、私よりも長時間労働をしていたようにも思えます。
私の想像ですが。

私の父親も、ある時期まで土曜日は半日出勤していましたし、
私の学生時代は、高校も大学も土曜日は午前中授業がありました。
昔はどこの企業も学校も休みが少なかったです。
私が職場で出会った年配の社員たちは、みんな文句も言わずに良く働いていました。

それを見ていると、自分が情けなく感じますが、
私は自己中心的なところがあり、長時間会社に束縛されることに耐えられませんでした。
雑な結論になってしまいますが、会社員という生き方が向かなかったのだと思います。



私の場合の苦労は、ご指摘のように長時間労働と、
仕事への興味のなさ、うつ病との戦いでした。
ST Rockerさんもあらゆる苦労をされたとのこと。
特に大病は大変でしたね。私には想像がつかないことです。


生きていれば、誰しもが苦労は絶えません。
それを表に出すか、出さないかの違いだと思います。
私はこのブログという、自分の辛かったこと(苦労?)を書く場が与えられているので
心の浄化のために書いているだけです。

一方、自分の苦しみや弱みを絶対に人に見せたくない人もいると思います。
学生時代の同窓会へ行ったり、Facebook等のSNSを見ると、
虚栄心の塊のような人を見かけます。
そういう人はそういう人で良いのですが、私とは趣味が合わないので
関わらないようにしています。


私はこのブログでは、良いことも、悪いことも
ありのままを書くように心がけています。

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16年間の会社員生活について その16  

16年間の会社員生活について その1~15はこちらから
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学生時代、パン屋でアルバイトをしていたことがありました。
朝の5時から8時までの3時間だったと思います。

もう20年以上前のことなので正確な事は忘れてしまいましたが、
お店に行って、まず一番にやるのは
アップルパイやチェリーパイなどのパイ生地に卵黄を塗ることでした。
そこから先はどうだったか?記憶がありません。

時間が経つにつれ、パイやパンが焼ける良い香りがしてくる事を覚えています。
焼きたてのパンは最高に美味しいです。

そのバイト先には、パン職人が何人かいましたが、安藤さんという職人さんがいました。
年は50歳ぐらいだったと思いますが、職人気質でいつもピリピリした感じで、
みんなに恐れられていて、誰も近づこうとはしませんでした。

でも、私はそんな安藤さんがとても好きでした。
彼とは良く話をして、彼も学生だった私のことを可愛がってくれました。


■職人気質のNさんの退職

Nさんは、当時50代前半の技能職の社員でした。
職人気質で近寄りがたい雰囲気で、
パン屋でアルバイトしていた時の安藤さんと重なりました。

年齢もそうですが、風貌や小太りで身長が低いといった背格好など
不思議なほど似ていました。

Nさんは独身で、母親と2人暮らしでした。
ウイスキーが好きで、毎日自宅で飲んでいるようで、
朝、出社して彼の近くに行くと酒臭かったです。
手はいつも微妙に震え、みんなからはアル中ではないかと言われていました。
でも技術は確かで、私は何度もNさんに助けられました。

Nさんは職人なので、仕事には厳しかったです。
加工機の電源の切り忘れ、道具を元に戻さないなど、
いい加減に仕事をしていると烈火の如く怒りました。
私も顔を真っ赤にしたNさんに何度か怒られたことを覚えています。

みんなは気難しいNさんの事を恐れ、避けているようでしたが
私はNさんの事が好きでした。
そしてNさんも、私にはそれなりに優しかったように思えます。


私が所属していた生産技術部は、定期的に転勤を伴う異動があり、
東京にある研究所と、地方にある工場を行ったりきたりしている人が多かったです。
しかし、Nさんは年老いた母親を連れて地方に行くとはできず、
かといって、母親を一人東京に残していくこともできず、転勤は全て断っていました。
そして、彼の上司もそのことに配慮していたようでした。

しかしある時、Nさんの部署ごとが地方の工場に行くことになり、
Nさんは転勤を拒否しましたが、この時ばかりはどうにもならなかったようです。
そして、彼は会社を去ることになりました。

彼の送別会は、会社近くの居酒屋でささやかに行われました。
私は彼との別れが辛くて、涙が出てきたのを覚えています。



Nさんは資産家でした。
ある時、彼が住んでいた土地が用地買収の対象となり、
立ち退きを求められ、その補償金として多額の現金が得られたからです。

Nさん本人から聞いたのですが、
立ち退きの際は、何人もの交渉代理人が入れ代わり立ち代わり来て、
立ち退き料はどんどん釣り上がっていったそうです。
最終的に幾になったかは、正確には教えてくれませんでしたが、
その額は、2億円以上3億円以下だと言っていました。
それだけの資産があったので、転勤を断り、
あっさりと仕事を辞めることができたのでしょう。
当時、鬱で仕事を辞めたいと常々考えていた私は、彼がとても羨ましく思えました。

Nさんが仕事を辞めてから、街で何度か彼と会いました。
小太りで背の低いNさんが、更に太っていたことを覚えています。
悠々自適な生活を送っているようでした。




Nさんが多額の資産を手に入れたのは、偶然に他なりません。
偶々その土地に住んでいて、偶々その土地が用地買収の対象となったからです。
そういった運、不運に人生は常に支配されています。

極端な話、生まれながらにその人の運命は決まっているとも思えます。
裕福な家に生まれたか、容姿端麗な両親から生まれたか、
頭脳明晰な両親から生まれたか、健康な肉体・精神であるか。
もちろん、後天的な「努力」という要素はあるにせよ、努力して必ず報われるとは限りません。
むしろ人生の中では、自分の努力ではどうにもならないことの方が
圧倒的に多い気さえします。

生きていくことは常に運命に翻弄され続ける。
私が人生に理不尽さを感じるのは、そういう点からだと思います。


その17 に続く

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16年間の会社員生活について その14  

16年間の会社員生活について その1~13はこちらから
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■課長代理に昇格

2003年4月(入社8年目 31歳)
課長代理に昇格しました。

課長代理に昇格すると月々の給与が5万円弱増えることになりますが、
残業代は一切支給されなくなります。
元々残業代は10時間までしか支給されていなかったので
収入が増えたことは素直に嬉しかったです。

私の会社では、30歳を超えるとみんな課長代理に昇格します。
課長代理は管理職扱いなので、残業代を支給することなく
体よく長時間労働をさせることができます。
一時期良く言われた名ばかり管理職です。
私の会社では、全従業員の7~8割が課長代理以上の管理職でした。



この頃一緒に仕事をしていたのは、私より9歳年上のSさんでした。
Sさんは私の前工程の加工技術の開発を担当していて、
Sさんの検討が遅れると、私の検討ができなくなり手が空いていしまうので、
私は度々Sさんの仕事を手伝っていました。


Sさんは大学と共同研究をしていて、
時々、私もSさんと一緒に大学へ行って手伝いをしました。

大学にはいつも1週間ほど滞在しました。
初日は午前中に東京から移動して、午後から大学で加工。
2日目以降は、朝ビジネスホテルで朝食を食べた後、8:00頃にタクシーに乗って大学へ移動。
昼食は大学の学食で食べて、仕事が終わるのは23:00~1:00頃。
タクシーで市内に戻るも、やっているお店は焼肉屋ぐらい。
とても虚しい気持ちでビールを飲んだことを覚えています。

折角の出張なので、地の物を食べれると思っていたのですが、
学食の定食と焼肉しか食べた記憶しかありません。
もちろん観光なんて皆無です。



職場での仕事も長時間労働は常態化していました。
Sさんは良く会社に泊まっていて、
私が朝出社すると、Sさんは段ボールを敷いて寝ていました。
終電が無くなり深夜タクシーでも帰ることもあり、自宅まで5,000円程かかるそうですが、
会社からの支給は無く自腹だったようです。

Sさんは当時40歳でしたが、連日の長時間労働に良く耐えられるなと感心した覚えがあります。
私の勤めていた会社では、みんな文句を言わずに良く働いていました。
私はそういうのがとても嫌でした。
賃金という対価が得られたにせよ、興味の無いことに1日の大半を費やされることに
我慢ができなかったのだと思います。



Sさんが共同研究をしていた大学の研究室に、Kさんという大学院生がいました。
彼は後に、私の会社に入社して同じ部署で働くことになりますが、
心を病んで退職してしまいました。
彼も印象に残っている一人なので、次回は彼のことを書いてみたいと思います。


その15 に続く

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16年間の会社員生活について その13  

16年間の会社員生活について その1~12はこちらから
         10
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■発達障害の二次障害としての鬱(2)

30歳から40歳までの会社員時代10年間と、
その後、退職してからの2年間の合計12年間精神薬を服用していました。

会社員時代は、仕事の内容によっては抑うつ状態が軽減していた時もあり、
何度か薬を止めていた時期もありましたが、
基本的には同じ職場環境だったので、
調子が悪くなり精神薬を再服用することになりました。

精神薬の力を借りながらなんとか仕事を続けていましたが、
最後はどうにもならず、仕事へ行くことができなくなり休職しました。

休職後、復職するもすぐに再休職。
そして、復職することなくそのまま退職することになります。
(このあたりの詳細については追々書いていきます)


当時を振り返ってみて、
もし、その時自分が「自閉症スペクトラム障害」であることが分かっていたら
どうしていただろうか?と考えるとことがあります。

普通の人と同じように働くことが無理だったということは明らかでした。
自分なりに無理なくできる仕事を真剣に探した方が良かったのか?

しかし、こう考えることは簡単ですが、
(経済的に)安定した家族の生活を考えると、当時勤めていた会社の職を投げ捨てることは
なかなか出来なかったと思います。
とても難しい問題でした。



以下は雑談です。

12年間でかかった精神科医は主に4人いました。
・会社に診察に来ていたT先生、
・会社近くのクリニックのK先生、
・都内の病院のT.T.先生
・入院した病院のK.K.先生

最初にかかったのは、会社に来ていた精神科医のT先生でした。
私より9歳年上であることが分かりました。
都内でクリニックを開業していましたが、今は生まれ故郷に戻って開業しているようです。
当初は会社で週1度診察をしていましたが、
あまりにも心を病む社員が増えてきて、会社では対応できなくなったとのことで
会社での診察は廃止になりました。
代わりに、会社から紹介されたクリニックにかかることになりました。


会社近くのクリニックのK先生は40代半ばぐらいの先生でした。
とても優しい先生でしたが、私が苦しさを訴えてもいつも同じような薬の処方で、
親身になって考えてくれるようには思えませんでした。
精神状況は更に悪化し、K先生の処方ではどうにもならず、
都内にある大きな病院に代えることにしました。


大きな病院のT.T.先生は、30代前半ぐらいの先生で
とても親身になって薬を処方してくれました。
私が出会った先生のなかで一番信頼できる先生でした。
実は精神科通いを止めた後、一度だけ大きく精神状況を崩した時があって、
その時、再度T.T.先生にかかろうと思い診察予約を取ろうとしたのですが、
大きな病院でしたので、再診の場合医師の指名はできませんと断られ、
T.T.先生にかかることはできませんでした。


鬱の状態が酷く、希死念慮(死にたい気持ち)が強くなり入院することになりました。
T.T.先生の病院も入院施設はありましたが、自宅から遠く、妻の負担も大きいので、
自宅から近い病院に入院することになりました。

この病院で主治医となったK.K.先生は、40代半ばぐらいの先生でした。
私が発達障害であることを見抜き指摘してくれた先生で
今となってはとても感謝をしています。
私が発達障害であることを自覚することで、どれほど生き易くなったかは計り知れません。
命の恩人とも言えます。
しかし、診察自体はいつも淡白で、私との相性の良さは感じられませんでした。



飲んだ精神薬についても少し書いてみます。
2002年(30歳)~2014年(42歳)1月に断薬を完了するまでの12年間、
色々な向精神薬を飲みました。
初期の頃はお薬手帳も無く、どんな薬を飲んでいた忘れてしまいましたが、
記憶にあるものだけ書いておきます。


抗うつ薬は基本的に効きませんでした。
最終的に希死念慮が強かったときは、
SSRIのデプロメールと、抗精神薬のジプレキサを併用していました。
ジプレキサは抗精神薬だけあって、何となく鎮静されているような感じがしました。

抗不安薬は使用当初は効いたものの、耐性ができてしまい、
その後はあまり効果が感じられませんでした。
一番好きだったのはワイパックスでした。
ガツンと効いて、重みのある感じがしました。
ソラナックスはシャープに効きますが、持続時間短いような気がしました。
レキソタンは重厚感があり、不安や緊張が抑え込まれる感じがして好きでした。
セルシンはパンチは無いものの、飲むと心が安定して、好んで飲んだ覚えたあります。
仕事中は、これらの抗不安薬を色々と使い分けていました。

睡眠薬はドラールが好きでした。
とにかく鬱の時は起きていたくない。ずっと寝ていたい。
それは、寝ている時は何も考えずに済み楽だったからです。
ドラールを飲んだ時は、ダラダラと眠れたような気がします。


鬱について書こうと思えばいくらでも書けますが、
ここでは16年間の会社員生活のことを書いているので
このくらいにしておきます。
参考までに、12年間で飲んだ精神薬の一覧を書いておきます。

【抗うつ薬】
 非定型
 ・ドグマチール(スルピリド)
 三環系
 ・ノリトレン(ノリトリプチリン)
 SSRI
 ・レクサプロ(エスシタロプラム)
 ・デプロメール(フルボキサミン)
 NaSSA
 ・リフレックス(ミルタザピン)

【抗精神薬】
 非定型
 ・ジプレキサ(オランザピン)

【抗不安薬】
 短時間作用型 半減期6時間以内
 ・リーゼ(クロチアゼパム)
 ・デパス(エチゾラム)
 中時間作用型 半減期12~24時間以内
 ・ソラナックス(アルプラゾラム)
 ・レキソタン(ブロマゼパム)
 ・ワイパックス(ロラゼパム)
 長時間作用型 半減期24時間以上
 ・セルシン(ジアゼパム)
 ・セパゾン(クロキサゾラム)
 超長時間作用型 半減期90時間以上
 ・メイラックス(ロフラゼプ酸エチル)

【睡眠薬】
 超短時間作用型
 ・マイスリー(ゾルピデム)
 短時間作用型
 ・レンドルミン(ブロチゾラム)
 中間作用型
 ・サイレース(フルニトラゼパム)
 長時間作用型
 ・ドラール(クアゼパム)

これを書いていたら、当時薬を飲んでいた時の感覚が鮮やかに蘇ってきて
懐かしい気分になりました。


その14 に続く

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16年間の会社員生活について その12  

16年間の会社員生活について その1~11はこちらから
         10
11 

■発達障害の二次障害としての鬱(1)

2002年、30歳の時に初めて精神薬を飲みました。(その11 はじめての精神薬)
その後、一度は良くなったものの、仕事の不適応感から精神的にバランスを崩し、
2014年1月に断薬をするまで12年間(退職後も2年間)精神薬を飲んでいました。


生活費を稼ぎ続けるためには仕事は辞められない。でも、仕事は辛い。
精神薬を飲むことで辛うじて仕事は続けられる。
私は定年まで、家族の生活を維持するために、
精神薬を飲みながらずっと仕事を続けていくのだろうと
ぼんやりとした頭で考えていました。


私の自閉症スペクトラム障害の一次障害は、
仕事に興味が全く持てないこと(その9)、
型通りの定型業務はできるが、臨機応変の対応が求められる業務が苦手であること(その10)
からくる仕事への不適合感でした。

そして二次障害は、この不適合感から生ずる、不安、うつ、緊張といった精神症状と、
胃痛、腹痛、首痛、肩痛、腰痛、顎関節症といった身体症状として現れました。
この一連の不定愁訴は、主観的な自覚症状はあるものの、
検査をしても客観的には異常がなく、とても苦しみました。



一番苦しかったのは「腸の痛み」です。
腸が痛いという意味は分からないと思いますが、
腸が動いていない感じがする、食べ物が詰まっている感じがする、
そのためお腹が張って痛い、常に残便感がある、といった症状です。

レントゲンやCTの検査をしても異常なし。
大腸の内視鏡検査をしても異常なし、小腸の検査をしても異常なし。
小腸の検査は苦しかったです。
鼻から管を入れて、小腸に造影剤を入れながらリアルタイムに医師と技師が観察する。

薬も色々と処方されましたが、
(ガスモチンのような消化管の運動を促進する薬など だったと思う)
全く効きませんでした。

あまりにお腹の痛みや張りが苦しくて、
日曜日の夜間に救急外来を受診し、苦しいので入院させて欲しいとお願いをするも、
入院を要する所見も無く、翌日、外来で受診して検査を受けて欲しいと言われ
家に帰されました。

家に帰ると医師から見放されたような感じがして心細くなり、
そのことで、さらに腸が痛く感じられ、苦しくて眠れなかったことを思い出します。


今考えると、これらの身体症状は、極度のストレスで緊張状態が続くことによって
全身の筋肉や消化器官が硬直していたのでしょう。
消化管の働きは自律神経によってコントロールされるので、
ストレスは悪影響を及ぼします。


自宅近くの病院で一連の検査を受けた後、
担当した内科医に、「全て検査をしたけれど、全く異常は見られない」と告げられ
診察の最後に「あなたのお腹は良いお腹してますよ」と言われ
自分のなかでは納得がいかない部分もありつつも、なぜか安心したことを覚えています。
それ以降、腸から意識が離れていき、徐々に苦痛が消えていったような気がします。


2002年(30歳)から退職する2012年(40歳)までの間は
精神科にもずっとかかっていましたが、その他にも不定愁訴で、
内科、整形外科、口腔外科などにも年中かかっていて、相当な医療費を支払っていました。


仕事を辞めた今は殆ど病院へ行くことは無くなりました。
それを考えると、これらの不定愁訴は、
全て仕事のストレスから来るものだったのだと考えられます。
本当に、私には会社員生活が向かなかったのだなと思います。


その13 に続く

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16年間の会社員生活について その11  

16年間の会社員生活について その1~10はこちらから
         10

■はじめての精神薬

2002年(入社7年目 30歳)
仕事には相変わらず興味が持てず、生きていくためのお金を得るために、
与えられた仕事を淡々とこなす日々が続いていました。

私生活では、1999年秋に大学時代から付き合っていた今の妻と結婚し、
その翌年の2000年、上の子供が生まれました。
家庭を持ち子供が生まれ、益々仕事を辞めることができなくなった
といった強いプレッシャーを感じるようになりました。


2002年のある時期、ずっと製品の測定をしていた時がありました。
1日中モニターを眺めて作業をしていたところ酷い眼精疲労になり、
仕事も終わってからも目の奥の痛みは続き、夜も痛みで眠れないぐらいでした。

目は痛い、でも仕事はしなくてはならない。
このことがきっかけで食欲は無くなり、夜も眠れなくなり、
早朝覚醒も起るといったような抑うつ状態となり、
会社に週に1度診察に来ている精神科医に見てもらうことになりました。


精神科のT先生は、都内で開業している40歳ぐらいの先生で、
話を良く聞いてくれて、とても安心したのを覚えています。

診断の結果、鬱とは言われなかったと思いますが(記憶が定かではない)
少し薬を飲んでみましょうということになり、
スルピリド(ドグマチール)50mg、頓服で不安時にエチゾラム(デパス)0.5mg
寝る前に、睡眠薬代わりにエチゾラム(デパス)0.5mgを処方されました。


はじめてデパスを飲んだ時は感動しました。
これまで苦しんでいた不安感が全く無くなってしまう。
こんな便利な薬が世の中にあったのかと驚きました。

寝る時も、デパスを0.5mg飲んだだけで数分で意識が無くなり、
気が付くと朝になっている。
ぐっすりと眠れるようになりました。

その後は耐性が付いて、あまり効かなくなりましたが、
ベンゾジアゼピン系の抗不安薬は、私はそれなりに効きました。

一方、抗うつ薬はあまり効果が実感できませんでした。
抗不安薬ほどの即効性は無いにしろ、薬を飲んでいても
鬱状態が良くなっているという感じはしませんでした。



精神薬を飲み始め、また、測定の仕事も私一人ではなく
他のメンバーに手伝ってもらうようになり、
食欲不振や睡眠障害も徐々に良くなりました。
そして、3ヵ月ほどで薬を止めることができました。


その12 に続く

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16年間の会社員生活について その10  

16年間の会社員生活について その1~9はこちらから
        


■上司のYさんの配慮

1999年(入社4年目27歳)
異動になり、直属の上司となったYさんは、私より6歳年上のとても優秀な人でした。

少し話は逸れますが、この会社で16年勤め色々な上司を見てきましたが、
上司には下記の2つのタイプがありました。

(1)本当に優秀な人
どんなに頑張っても、この人には絶対追い付けないだろうなと思えるほど
優秀な人が何人かいました。
この人たちは、先天的に優れた何かを持っている人と考えられます。
それに努力が加われば、凡人は追い付くことができません。
このタイプの人たちは、その後どんどん出世していきました。

(2)努力の人・運良く空いたポストにすべりこんだ人
一方で、何でこの人が役職に付いているの?と思えるような上司もいました。
真面目にコツコツと仕事をしている姿は美しく見えますが、
私から見て「頭の切れ」は全く無く、仕事に進め方に関してもスマートには見えませんでした。
仕事はあまりできなくても、社内政治には優れていたりします。
運よくポストが空いて、出世できたような上司もいました。
このタイプの人たちは良くて部長までしか出世できませんでした。


と、話は少しそれましたが、
私の直属の上司となったYさんは、前者の本当に優秀なタイプの人でした。

生産技術部3課の業務は、研究開発的な要素が強く、
新しい加工法の開発をしていました。

実験をして、レポートにまとめ、再度実験をする
といったことを繰り返していました。
私は実験をすることは好きでしたが、その後の実験結果をまとめたり、
考察して次の実験計画を立てることが苦手で、いつもそこで躓いていました。

それを見ていたYさんが
--------------------------------------------------------------------------
ニックさんは手を動かすことはとても早く正確だけど、
考えたり、計画を立てるのは苦手だよね
--------------------------------------------------------------------------
と言い、私が実験に専念して、Yさんが実験結果をまとめたり、計画を立てるといった
分業制にしてくれました。その方が効率が良いと考えたのでしょう。
その結果、これまでに無いスピードで仕事が進むようになりました。
この頃は仕事がやりやすく、苦しい思いはあまりしなかったような気がします。


後に、鬱で入院した病院で発達障害を疑われ心理検査をしましたが、
その報告書の中には以下のように書かれています。
--------------------------------------------------------------------------
(私の特徴として)
物事に対して、多くの人がそうするであろう型通りのやり方で対処していく傾向にあります。
慣れた作業を淡々とこなしていくことは得意ですが、対処することが複雑になったり、
臨機応変を求められることは苦手ではないかと考えられます。
また、状況の変化に対しての動揺が大きいと考えられます。急な状況の変化は苦手ですが、
慣れていくに従い自分に合ったやり方で対処していく力はありますので、焦らずいつもの
ペースを取り戻していけるとよいかと思います。
--------------------------------------------------------------------------
ここにも書かれているように、私は定型業務の方が得意です。
そして、それに慣れると効率良く業務をこなしていくことができます。


Yさんが上司になった1999年当時は、発達障害という言葉もあまり聞かず、
そういった人達への理解は無かったと思われますが、
(日本で発達障害者支援法が制定されたのは2005年4月)
Yさんは私の適性を見抜いたうえで、仕事を配慮してくれた。
とても有難かったです。


私のような自閉症スペクトラム障害の人でも、
上司や職場の配慮があれば、能力を発揮できる場合もあると思いますが、
そういった環境を得られるのは、まだ一部の人に限られていると思います。


その11 に続く

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16年間の会社員生活について その9  

16年間の会社員生活について その8 からの続き
      はこちらから

■生産技術部3課へ

1999年(入社4年目) 4月
東京にある生産技術部3課での勤務が始まりました。
上司は新任のI課長、直属のリーダーも新任のTさんでした。

異動して数ヵ月経過したある日のこと、
昨年末に面談したK部長と廊下ですれ違ったときに声を掛けられました。
「新しい部署での仕事には興味が持てそう?」と
私はとっさに「はい、興味があってやりがいがあります」と嘘をついてしまいました。
その時のことは、今でも鮮明に覚えています。


私は16年間勤めたこの会社で、最終的には鬱になって辞めてしまうのですが、
最大の苦痛は「仕事に興味が持てなかった」ことでした。

私が最近読んだ発達障害の本(発達障害のいま 講談社現代新書 杉山登志郎 著)に
自閉症スペクトラム障害について書かれているのを読みました。
その特徴の中に
---------------------------------------------------------
・興味の偏りが激しい
自閉症スペクトラムの場合、当然ではあるが、興味のあることとないことの間に
著しい落差があって、興味がないことに無視するということが実に多い。
---------------------------------------------------------
まさに私のことだと思いました。

自閉症スペクトラム障害の人は、興味の範囲がもの凄く狭いのです。
一般の人なら、興味が持てないことでも仕事と捉え、
業務をこなしてくうちにそれなりに適応していきます。

しかし、私のような自閉症スペクトラム障害の人は、
興味がないことは苦痛でたまらない。うまく適応できないのです。
私の感覚では、一般の人は8割ぐらいの仕事に適応できるのに対して、
自閉症スペクトラム障害の人は、1割ぐらいしか適応できないように思えます。

しかし、自閉症スペクトラム障害の人でも、運良く興味あることに巡り合えれば、
その仕事(物事)に対しては深く入り込んで行けるので、
大きく成功する可能性が高いと考えられます。


入社4年目
この会社では自分に合う仕事、興味が持てる仕事が無いように感じ始めました。
仕事にやりがいを求めるのは止めよう。
お金をためと割り切って働くようにしよう。
仕事に希望が持てず、仕事が苦痛になりはじめたのは、丁度この頃からでした。


その10 に続く

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16年間の会社員生活について その8  

16年間の会社員生活について その7 からの続き
     はこちらから


■十二指腸潰瘍の再発

1998年(入社3年目)の秋

相変わらずの長時間労働。
以前のように、毎日深夜2:00まで働くという勤務ではありませんでしたが、
週に2~3日は0:00近くまで働いていました。
時々20:00頃の帰れると嬉しかったです。

これだけ働いても残業代は10時間までしか支給されず、働くことに虚しさを感じていました。
その上、東京に帰りたい気持ちも強くなり、
日々のストレスはピークに達しつつありました。


前年、十二指腸潰瘍で入院した市立病院には退院後も定期的にかかっていて
薬(オメプラール、その後ガスター)を服用していましたが、
症状が急速に悪化し、また下血をするようになりました。
病院では再入院を強く勧められましたが、仕事を休む訳にはいかなと思い
通院しながら仕事を続けることにしました。

今だったら迷わず入院・休職していたと思いますが、
当時は若く、これ以上休むと仕事に置いていかれることに怖さがありました。



1998年の年末頃だったと思いますが、生産技術部のK部長と面談がありました。
その席で私は、生産技術部2課の働き方の不満を話し、
十二指腸潰瘍を繰り返していることもあり、これ以上はここの部署ではやっていけず、
異動したいといった希望を述べました。

私の上司であるH課長も、長時間労働に耐えられない私を
戦力にならないと思っていたことでしょう。
K部長とH課長の判断で、私は東京にある生産技術部3課への異動が決まりました。



1年半で東京に帰ることになりましたが、
この地での楽しかった思い出も少し書いておきます。

同じ部署で入社が1年早い、酒好き、女好きのMさんが
良く飲みに連れて行ってくれました。
この地ではキャバクラなるものは無くて、フィリピンパブばかりでした。

そのフィリピンパブも安い。
田んぼの真ん中にあるバラック小屋のようなところが店舗で、
看板も何も無く、見た目にはお店とは分からないようなところでした。
二次会で22時頃から飲み始めて、閉店(深夜2:00頃)までいても
飲み放題で一人3,000円ぐらいでした。
(※東京だと、黒服に交渉して値切って1時間3,000円ぐらい)
聞くところによると、農家の兼業でフィリピンパブを経営しているそうです。
そんなお店が何件かありました。

あとは寮の近くに中華料理屋があって、そこには良く飲みに行きました。
安くて美味しかったです。
焼肉屋でも良く飲みましたが、寮からは少し遠いので代行を使って行きました。
田舎なのでチェーン店系の居酒屋などは皆無でした。

お酒を飲んでいる時だけは、
仕事の辛さを忘れることができ、幸せな気分になれました。
(十二指腸潰瘍でも普通に飲んでいました。流石に下血している時は控えましたが)


一緒に仕事をしている人達は本当に良い人ばかりでした。
元々この地に住んでいる地元採用の人は情に厚く、色々とお世話になりました。
入院した時にお見舞いに来てくれたり、家に招待してくれたり、登山に連れて行ってくれたりetc
仕事には恵まれませんでしたが、ここでも一緒に働いた人達には恵まれました。


その9 に続く

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について コメントへの返信  

mooncloudさんからコメントを頂きました。
16年間の会社員生活について その7
返信が長くなりましたのこちらに書きます。

mooncloud さんは、私が無職時代に知り合った友人の一人です。
彼は当時、東京の自由が丘に住んでいて、私が職を失って鬱が回復したばかりの頃、
二子玉川(東京・世田谷区)の喫茶店で会って話をしました。
今から6年前、2014年3月のことだったと思います。
それが縁で、彼が大阪に引っ越してからも年に数回会うようになりました。

-------------------------------------------------------------------------------
就職支援会社は僕も登録しました。大阪限定職で年550万円。
残業、休日出勤手当込みということでした。
当時働いていた会社からすればあまりに条件が悪いので、世間の厳しさを知りました。
-------------------------------------------------------------------------------
転職活動の多くは、スキルアップや収入アップを目指すものが多いと思いますが、
私の場合、働いていた職場の長時間労働が嫌で、その状況から逃げ出したい一心だったため
仕事内容や収入についてはあまり考えませんでした。

転職支援会社で嫌だったのは、
早く転職先を決めて欲しいという担当者からのプレッシャーでした。
私は仕事を続けながら、良い会社が見つかったら転職したい程度にしか思っていませんでしたが、
転職支援会社の担当者は、転職先を紹介することでフィーが発生するので、
短期間に多くの人を転職させたかったたように思えます。
途中から、転職をせかされて嫌になりました。

これは退職後、再就職支援会社を利用した時も同じでした。
鬱であまり調子が上がらず、のんびりと再就職先を探したかったのですが、
せかされたため退会しました。
ちなみに、転職支援会社も再就職支援会社も同じリクルートでした。

-------------------------------------------------------------------------------
つげ義春が話題になっていますね。僕も彼の貧困旅行記を読んだことがあります。
図書館の旅行のコーナーに置いてありました。全国の温泉ならぬ鉱泉を巡るという
少し変わった旅行記でした。
面白くて何度も読みました。ちょうど休職していた時期なので、
自由な生き方に共感しいていいたようにも思います。
-------------------------------------------------------------------------------
その本も面白そうですね。機会があったら読んでみます。

私の会社員生活の前半は、自由ということには興味は無く、
社会的地位や金銭的な裕福さを求めていました。
他人から良く思われたい。他人から羨まれるような生活をしたい。
人と比較して、優位にある立場でありたという選民意識が強かったです。

皮肉なことですが、今となっては最も軽蔑するような人たちのように
自分はなりたいと思っていました。今よりも心が貧しかったです。


今は無職であり、自由に生きていますが、その生き方は私も好きで合っています。
しかし、自由に生きていくためには代償もあります。
無職の場合には、社会的の地位のなさだったり、貧しさだったり、生活の不安定さだったり。
そういったものを受け入れた上で価値があると思えれば、
自由な生き方をすれば良いのです。


私は無職やセミリタイア生活が素晴らしいから
みんなもやった方が良いとは全く思いません。

私にとっては合っている生き方であっても、他の人にとっては良いとは限らないからです。
能力があって社会でバリバリに働くことが心から楽しいと思える人も
この世の中には一定数いるはずです。

生き方には色々あります。
その中から、自分が楽しいと思える、居心地が良いと思えるような生き方を見つけることができ、
かつ、世間からどう思われようが、まわりの目を気にすることなく
それを実践することができれば、その人は幸せと言えるような気がします。

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16年間の会社員生活について その7  

16年間の会社員生活について その6 からの続き
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■転職活動

1998年4月 入社3年目
プロジェクトが失敗に終わり、新しい仕事がはじまりました。

部署や上司は同じままで、新しいテーマに取り組むことになりました。
私は50代後半のSさんと一緒に仕事をしました。
Sさんは元々は管理職でしたが、技術系の仕事をしたということで
管理職を降りて生産現場に戻ってきた人です。
技術的なことは本当に詳しくて頼りになる人でした。
前のプロジェクトでのMさんもそうでしたが、
私の部署のベテラン社員は、技術の面で優秀な人が多かったように感じます。


プロジェクトが終了して新しい仕事になったものの
長時間労働は相変わらずでした。
8:00に出社して、帰宅するのは23:00頃が多かったです。

長時間労働も辛かったですが、ホームシックにもかかっていました。
地方の工場へ来て1年半が経ちましたが、なかなか田舎の空気には馴染めませんでした。
寮には同期入社の同僚が5人いましたが、彼らと一緒に行動することはありませんでした。
決して仲が悪かった訳ではありませんが、一人で居ることの方が居心地が良かったです。

また、東京のように一人で出かけられるようなお店や施設も近くにはありませんでした。
どこへ行くのも車でないと行けないので、お酒を飲みに行くこともできません。
仕事面の不満に加え、環境面でのストレスも積もり積もって、
転職を考えるようになりました。


いつの頃かは覚えいませんが、東京に戻るために転職活動を始めました。
転職支援会社に登録した後、担当者と面談をして、何社か紹介してもらいました。
紹介してもらった企業は外資系が多かったです。
そのなかで、半導体の外資系メーカーが私に興味があるということで面接をすることになりました。

ある日曜日、横浜にあるオフィスで面接をしました。
人事の人と面接をした後、日曜日だけど社長が出社しているので会ってみないかと言われ、
社長とも面談しました。
社長はとてもやさしく人当たりの良い人だった事を覚えています。

人事の人、社長との面接ではどんな話をしたかは全く覚えていませんが、
社長から「ニックさんは、とても良い会社の生産技術部に折角入ったのだから、
もう少し頑張ってみた方が良いと思うよ」と言われたことだけ覚えています。
(やんわりと、採用を断られたようにも思えます。)

私だって、はじめは「良い会社」と思っていましたが、
実際はとんでもない職場で、酷い目にあってきたのです。
内実も知らないで・・・と、軽い反感を抱きましたが、
今考えると、世の中の会社は、どこも同じようなものなのかもしれません。


入社3年目のこの頃は、自分の中でも、こんな直ぐに今の会社を辞めてしまって良いのか?
といった葛藤もあり、もう少し今の会社で頑張ってみることにしました。
そして、転職活動は一時中断しました。


その8 に続く

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16年間の会社員生活について その6  

16年間の会社員生活について その5 からの続き
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■プロジェクトの解散とプロジェクトのメンバー

1997年6月。職場に復帰しました。
1ヵ月の間留守にした寮に戻ると、辺りの景色は様変わりして、
すっかり初夏の様相を呈していました。
寮の周りはすべて田んぼだったので、夜はカエルの鳴き声がうるさいぐらいでした。


入社2年目にして病気休職。
この頃は、まだこの会社で頑張ろうと思っていました。

復職すると、病気療養明けの私だけが定時勤務を命じられました。
早く帰れるのは嬉しいことでしたが、遅くまで働いている他のメンバーのことを考えると
とても後ろめたい気持ちになりました。

その後、プロジェクトは色々なことが見直され、改善策が講じられましたが
採算が合わないという理由から打ち切られ、解散することになりました。
プロジェクト開始から1年半。1998年3月末のことです。

プロジェクトのメンバーは私を含めて6名でした。
その一部を紹介します。

・K.S.さん(30代前半)
 プロジェクトリーダー
 新婚で子供が生まれたばかりでした。

 最年長メンバーのMさんに、いつも、
 「K.T.は子供が生まれたばかりなのに子供に会えなくて可哀そうだ」
 と言われていました。
 当時独身だった私には、あまりピンとくる言葉ではありませんでしたが、
 家庭を持った今なら、K.S.さん本人も、そして家族も大変だっただろうなと想像できます。

 後にK.S.さんは、このプロジェクトを始めるにあたって試算した計画書の数字を
 作り上げてしまった、失敗するのは分かっていたとメンバーに告白し、謝罪しました。

 プロジェクトを推進していたH.S.課長に計画書を提出した所、
 何度も見直すようにと計画書を戻されて、H.S.課長が満足するような数字を作り上げてしまったと。
 会社員生活を円滑に続けていくには、なかなか上司には逆らえません。
 プロジェクトリーダーであるK.S.さんは、最大の被害者だったと思います。


・Mさん(40代前半)
 メンバー最年長の技能者。地元採用の社員。
 加工に困った時はいつも助けてくれました。
 私は「職場の働き方が異常である」という愚痴を、ことあるごとにMさんにこぼしましたが、
 「このあたりでそれなりの給料をもらえるのは今の会社ぐらいだから」といつも一蹴されました。
 
 仕事が少ない地方では、労働者は足元を見られます。
 不景気になり仕事が少なくなると、やはり労働者は足元を見られます。
 だから景気は良いに越したことはありません。


・K.T.さん(20代後半)
 私より6歳年上のK.T.さんは、どんなに仕事が忙しくても定時の17時なると、
 用事があると言って帰っていました。
 まわりからどう思われようが良いという割り切った姿勢は、私には真似できませんでした。
 そのため彼は周囲のメンバーからは疎われ、会社に居づらくなったのか、その後転職しました。
 あの職場は異常だったで、逃げ出せたことは良かったのかもしれません。


・H.Y.さん(40代前半)
 同じプロジェクトのメンバーではありませんが、隣のプロジェクトのリーダーでした。
 頭を丸刈りにして貫禄があったので住職と呼ばれていました。
 彼は、自分のプロジェクトに参加していた他部署のメンバーに対しても、
 「うちの部署の定時は7:00-21:00だから」と公言し
 勝手に長時間労働を強いていました。実際はみんなそれ以上働いていました。

とにかく生産技術部2課の働き方は異常でした。
それに対して、だれもが異議を唱えることなく言われるがままに働いていました。
だから、この部署の成果は部内では常にトップクラスでした。
それはこういった人柱の上になりたっていたのだと思います。


その7 に続く

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16年間の会社員生活について その5  

16年間の会社員生活について その4 からの続き
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■入院

毎日18時間働く生活が続いたある日のこと、
このままではみんな参ってしまうということで、交代勤務を始めることになりました。
 日勤は、8:00-18:00
 夜勤は 18:00-深夜4:00
だったと思います。
これで長時間労働から解放されると、とても嬉しかったことを覚えています。

しかし、そんな喜びも束の間のことで、直ぐに失望へと変わりました。
私は若く独身だったということもあって、基本的には夜勤でした。
当初は18:00-深夜4:00という10時間労働でしたが、それでは仕事が間に合わず、
リーダーから16:00に出社して欲しいと頼まれました。

更に、深夜4:00までに仕事が終わらず、朝6:00まで働くようになり、
日勤組が出社する朝8:00からのミーティングにも参加してほしいと言われ、
朝の9:00過ぎ、遅い時は10:00頃まで働くようになりました。

最終的には、16:00-翌朝9:00までの17時間労働。
交代勤務前の8:00-深夜2:00までの18時間労働と対して変わりませんでした。

むしろ、食事が不規則なり、
空腹が厳禁である十二指腸潰瘍は悪化の一途を辿りました。
殆ど食べないまま仕事を続けていたので、
(仕事で疲れ果てて食欲は全く無くなりました)
この勤務が2週間程続いたある日の朝、8:00からのミーティング中に突然気分が悪くなり、
トイレに駆け込んで嘔吐しました。
嘔吐物は真っ黒で、吐血だと分かりました。


そのまま医務室に行き、病院へ行くように指示され、
市立病院で内視鏡検査をして即入院となりました。
これであの激務から解放され、ゆっくりベットで眠れると思うと、
胃の痛みや苦しさよりも、安堵感の方が大きかったことを覚えています。
入社2年目、1997年5月の事でした。


入院生活は2週間続きました。
最初の1週間は完全絶食で、栄養は点滴でとっていました。
何も食べなくても全くお腹が減らず、不思議な感じがしました。

2週間の入院生活が終わった後、自宅療養となり東京の実家に帰りました。
自宅療養も2週間。それなりに幸せな時間だったように思えます。
1ヵ月の病気療養の休職後、再びプロジェクトへと戻りました。


後日聞いた話によると
入院した市立病院の主治医から、会社の医務室に
「会社の働かせ方は異常であり、今回の病気は労災だ」
と厳しい指摘があったそうです。
30代前半の若い主治医で、内視鏡の操作が慣れていなくて
検査では酷く苦しんだけど、良い先生だなと思いました。

その6 に続く

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16年間の会社員生活について その4  

16年間の会社員生活について その3 からの続き
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■生産技術部2課へ

東京からバスに乗って新天地へ。
バスを降りると、9月下旬だというのにとても寒かったです。

その工場は、山間の田んぼの中にポツンとありました。
住んでいた寮は最寄り駅からは20分程でしたが、電車は1時間に1本。
夜になると電灯も無く真っ暗になり、どこを歩いているか分からなりました。
月が出ている時は、月明かりで道があることが分かりました。


激しい胃痛と下血が続くまま、単身で地方の工場へ行くのは不安でしたが仕方の無いことでした。
新しく住む寮がある町には大きな病院が無く、会社の医務室の紹介で
車で30分程の市民病院にかかることになりました。

検査の結果、十二指腸潰瘍と診断されました。
そして、下血が続いたせいか貧血も酷いと。
新しく住んだ寮の部屋は4階でしたが、階段を上る時息苦しくて
休みながら上ったのはそのせいだと分かりました。


新しい部署での仕事は、当初はそれ程忙しくはありませんでしたが、
プロジェクトが進行するに連れ忙しくなり、3ヵ月ほど経ったころには
毎日18時間働くようになりました。
会社の定時は8:00-17:00まででしたが、
朝8:00-深夜の2:00頃までみんな当たり前のように働いていました。
入社してまだ1年程しか経っていない私には、それがとてもショックでした。


疲れ果てて深夜の寮に帰っても、夕飯が残っていないときも多く、
そういった時は、車に乗ってコンビニに夕飯を買いに行きました。
それからお風呂に入って寝る。
寝るといっても2~3時間仮眠をとればもう朝で仕事でした。
疲れている時は、食事も食べないまま寝てしまいました。

人間とは恐ろしいもので、そういった生活がずっと続くと慣れてしまうものです。
たまに22:00頃に帰れると、時間が沢山あって何をして良いのか分からない。
1時に寝て7時に起きても6時間寝たことになり、寝過ぎだと思えるぐらいでした。


これだけ仕事をしても、残業代は殆どもらえませんでした。
私の部署の残業の上限は10時間までと決められており、
それ以上の仕事?は自己啓発であり、残業代が付かないことを各自が承知の上で
自主的に会社に残っている、というのが暗黙の了解でした。
現在であるば問題になっていると思いますが、今から20年前は、
サービス残業がまかり通るような風潮でした。


毎日、働いている時間以外は、食事をしているか寝ているだけ。
残業代も支給されない。奴隷のような生活でした。


その5 に続く

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