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夢職ひきこもりの日々

40歳で鬱で職を失いました。2014年1月~2018年10月までトレードで生活費を稼いでいましたが、稼げなくなり完全に夢職なりました。酒場巡りをライフワークとするアル中予備軍。無業期間が長くなりすぎ再就職はあきらめました。

16年間の会社員生活について その14  

16年間の会社員生活について その1~13はこちらから
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■課長代理に昇格

2003年4月(入社8年目 31歳)
課長代理に昇格しました。

課長代理に昇格すると月々の給与が5万円弱増えることになりますが、
残業代は一切支給されなくなります。
元々残業代は10時間までしか支給されていなかったので
収入が増えたことは素直に嬉しかったです。

私の会社では、30歳を超えるとみんな課長代理に昇格します。
課長代理は管理職扱いなので、残業代を支給することなく
体よく長時間労働をさせることができます。
一時期良く言われた名ばかり管理職です。
私の会社では、全従業員の7~8割が課長代理以上の管理職でした。



この頃一緒に仕事をしていたのは、私より9歳年上のSさんでした。
Sさんは私の前工程の加工技術の開発を担当していて、
Sさんの検討が遅れると、私の検討ができなくなり手が空いていしまうので、
私は度々Sさんの仕事を手伝っていました。


Sさんは大学と共同研究をしていて、
時々、私もSさんと一緒に大学へ行って手伝いをしました。

大学にはいつも1週間ほど滞在しました。
初日は午前中に東京から移動して、午後から大学で加工。
2日目以降は、朝ビジネスホテルで朝食を食べた後、8:00頃にタクシーに乗って大学へ移動。
昼食は大学の学食で食べて、仕事が終わるのは23:00~1:00頃。
タクシーで市内に戻るも、やっているお店は焼肉屋ぐらい。
とても虚しい気持ちでビールを飲んだことを覚えています。

折角の出張なので、地の物を食べれると思っていたのですが、
学食の定食と焼肉しか食べた記憶しかありません。
もちろん観光なんて皆無です。



職場での仕事も長時間労働は常態化していました。
Sさんは良く会社に泊まっていて、
私が朝出社すると、Sさんは段ボールを敷いて寝ていました。
終電が無くなり深夜タクシーでも帰ることもあり、自宅まで5,000円程かかるそうですが、
会社からの支給は無く自腹だったようです。

Sさんは当時40歳でしたが、連日の長時間労働に良く耐えられるなと感心した覚えがあります。
私の勤めていた会社では、みんな文句を言わずに良く働いていました。
私はそういうのがとても嫌でした。
賃金という対価が得られたにせよ、興味の無いことに1日の大半を費やされることに
我慢ができなかったのだと思います。



Sさんが共同研究をしていた大学の研究室に、Kさんという大学院生がいました。
彼は後に、私の会社に入社して同じ部署で働くことになりますが、
心を病んで退職してしまいました。
彼も印象に残っている一人なので、次回は彼のことを書いてみたいと思います。


その15 に続く
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category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その13  

16年間の会社員生活について その1~12はこちらから
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■発達障害の二次障害としての鬱(2)

30歳から40歳までの会社員時代10年間と、
その後、退職してからの2年間の合計12年間精神薬を服用していました。

会社員時代は、仕事の内容によっては抑うつ状態が軽減していた時もあり、
何度か薬を止めていた時期もありましたが、
基本的には同じ職場環境だったので、
調子が悪くなり精神薬を再服用することになりました。

精神薬の力を借りながらなんとか仕事を続けていましたが、
最後はどうにもならず、仕事へ行くことができなくなり休職しました。

休職後、復職するもすぐに再休職。
そして、復職することなくそのまま退職することになります。
(このあたりの詳細については追々書いていきます)


当時を振り返ってみて、
もし、その時自分が「自閉症スペクトラム障害」であることが分かっていたら
どうしていただろうか?と考えるとことがあります。

普通の人と同じように働くことが無理だったということは明らかでした。
自分なりに無理なくできる仕事を真剣に探した方が良かったのか?

しかし、こう考えることは簡単ですが、
(経済的に)安定した家族の生活を考えると、当時勤めていた会社の職を投げ捨てることは
なかなか出来なかったと思います。
とても難しい問題でした。



以下は雑談です。

12年間でかかった精神科医は主に4人いました。
・会社に診察に来ていたT先生、
・会社近くのクリニックのK先生、
・都内の病院のT.T.先生
・入院した病院のK.K.先生

最初にかかったのは、会社に来ていた精神科医のT先生でした。
私より9歳年上であることが分かりました。
都内でクリニックを開業していましたが、今は生まれ故郷に戻って開業しているようです。
当初は会社で週1度診察をしていましたが、
あまりにも心を病む社員が増えてきて、会社では対応できなくなったとのことで
会社での診察は廃止になりました。
代わりに、会社から紹介されたクリニックにかかることになりました。


会社近くのクリニックのK先生は40代半ばぐらいの先生でした。
とても優しい先生でしたが、私が苦しさを訴えてもいつも同じような薬の処方で、
親身になって考えてくれるようには思えませんでした。
精神状況は更に悪化し、K先生の処方ではどうにもならず、
都内にある大きな病院に代えることにしました。


大きな病院のT.T.先生は、30代前半ぐらいの先生で
とても親身になって薬を処方してくれました。
私が出会った先生のなかで一番信頼できる先生でした。
実は精神科通いを止めた後、一度だけ大きく精神状況を崩した時があって、
その時、再度T.T.先生にかかろうと思い診察予約を取ろうとしたのですが、
大きな病院でしたので、再診の場合医師の指名はできませんと断られ、
T.T.先生にかかることはできませんでした。


鬱の状態が酷く、希死念慮(死にたい気持ち)が強くなり入院することになりました。
T.T.先生の病院も入院施設はありましたが、自宅から遠く、妻の負担も大きいので、
自宅から近い病院に入院することになりました。

この病院で主治医となったK.K.先生は、40代半ばぐらいの先生でした。
私が発達障害であることを見抜き指摘してくれた先生で
今となってはとても感謝をしています。
私が発達障害であることを自覚することで、どれほど生き易くなったかは計り知れません。
命の恩人とも言えます。
しかし、診察自体はいつも淡白で、私との相性の良さは感じられませんでした。



飲んだ精神薬についても少し書いてみます。
2002年(30歳)~2014年(42歳)1月に断薬を完了するまでの12年間、
色々な向精神薬を飲みました。
初期の頃はお薬手帳も無く、どんな薬を飲んでいた忘れてしまいましたが、
記憶にあるものだけ書いておきます。


抗うつ薬は基本的に効きませんでした。
最終的に希死念慮が強かったときは、
SSRIのデプロメールと、抗精神薬のジプレキサを併用していました。
ジプレキサは抗精神薬だけあって、何となく鎮静されているような感じがしました。

抗不安薬は使用当初は効いたものの、耐性ができてしまい、
その後はあまり効果が感じられませんでした。
一番好きだったのはワイパックスでした。
ガツンと効いて、重みのある感じがしました。
ソラナックスはシャープに効きますが、持続時間短いような気がしました。
レキソタンは重厚感があり、不安や緊張が抑え込まれる感じがして好きでした。
セルシンはパンチは無いものの、飲むと心が安定して、好んで飲んだ覚えたあります。
仕事中は、これらの抗不安薬を色々と使い分けていました。

睡眠薬はドラールが好きでした。
とにかく鬱の時は起きていたくない。ずっと寝ていたい。
それは、寝ている時は何も考えずに済み楽だったからです。
ドラールを飲んだ時は、ダラダラと眠れたような気がします。


鬱について書こうと思えばいくらでも書けますが、
ここでは16年間の会社員生活のことを書いているので
このくらいにしておきます。
参考までに、12年間で飲んだ精神薬の一覧を書いておきます。

【抗うつ薬】
 非定型
 ・ドグマチール(スルピリド)
 三環系
 ・ノリトレン(ノリトリプチリン)
 SSRI
 ・レクサプロ(エスシタロプラム)
 ・デプロメール(フルボキサミン)
 NaSSA
 ・リフレックス(ミルタザピン)

【抗精神薬】
 非定型
 ・ジプレキサ(オランザピン)

【抗不安薬】
 短時間作用型 半減期6時間以内
 ・リーゼ(クロチアゼパム)
 ・デパス(エチゾラム)
 中時間作用型 半減期12~24時間以内
 ・ソラナックス(アルプラゾラム)
 ・レキソタン(ブロマゼパム)
 ・ワイパックス(ロラゼパム)
 長時間作用型 半減期24時間以上
 ・セルシン(ジアゼパム)
 ・セパゾン(クロキサゾラム)
 超長時間作用型 半減期90時間以上
 ・メイラックス(ロフラゼプ酸エチル)

【睡眠薬】
 超短時間作用型
 ・マイスリー(ゾルピデム)
 短時間作用型
 ・レンドルミン(ブロチゾラム)
 中間作用型
 ・サイレース(フルニトラゼパム)
 長時間作用型
 ・ドラール(クアゼパム)

これを書いていたら、当時薬を飲んでいた時の感覚が鮮やかに蘇ってきて
懐かしい気分になりました。


その14 に続く

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16年間の会社員生活について その12  

16年間の会社員生活について その1~11はこちらから
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■発達障害の二次障害としての鬱(1)

2002年、30歳の時に初めて精神薬を飲みました。(その11 はじめての精神薬)
その後、一度は良くなったものの、仕事の不適応感から精神的にバランスを崩し、
2014年1月に断薬をするまで12年間(退職後も2年間)精神薬を飲んでいました。


生活費を稼ぎ続けるためには仕事は辞められない。でも、仕事は辛い。
精神薬を飲むことで辛うじて仕事は続けられる。
私は定年まで、家族の生活を維持するために、
精神薬を飲みながらずっと仕事を続けていくのだろうと
ぼんやりとした頭で考えていました。


私の自閉症スペクトラム障害の一次障害は、
仕事に興味が全く持てないこと(その9)、
型通りの定型業務はできるが、臨機応変の対応が求められる業務が苦手であること(その10)
からくる仕事への不適合感でした。

そして二次障害は、この不適合感から生ずる、不安、うつ、緊張といった精神症状と、
胃痛、腹痛、首痛、肩痛、腰痛、顎関節症といった身体症状として現れました。
この一連の不定愁訴は、主観的な自覚症状はあるものの、
検査をしても客観的には異常がなく、とても苦しみました。



一番苦しかったのは「腸の痛み」です。
腸が痛いという意味は分からないと思いますが、
腸が動いていない感じがする、食べ物が詰まっている感じがする、
そのためお腹が張って痛い、常に残便感がある、といった症状です。

レントゲンやCTの検査をしても異常なし。
大腸の内視鏡検査をしても異常なし、小腸の検査をしても異常なし。
小腸の検査は苦しかったです。
鼻から管を入れて、小腸に造影剤を入れながらリアルタイムに医師と技師が観察する。

薬も色々と処方されましたが、
(ガスモチンのような消化管の運動を促進する薬など だったと思う)
全く効きませんでした。

あまりにお腹の痛みや張りが苦しくて、
日曜日の夜間に救急外来を受診し、苦しいので入院させて欲しいとお願いをするも、
入院を要する所見も無く、翌日、外来で受診して検査を受けて欲しいと言われ
家に帰されました。

家に帰ると医師から見放されたような感じがして心細くなり、
そのことで、さらに腸が痛く感じられ、苦しくて眠れなかったことを思い出します。


今考えると、これらの身体症状は、極度のストレスで緊張状態が続くことによって
全身の筋肉や消化器官が硬直していたのでしょう。
消化管の働きは自律神経によってコントロールされるので、
ストレスは悪影響を及ぼします。


自宅近くの病院で一連の検査を受けた後、
担当した内科医に、「全て検査をしたけれど、全く異常は見られない」と告げられ
診察の最後に「あなたのお腹は良いお腹してますよ」と言われ
自分のなかでは納得がいかない部分もありつつも、なぜか安心したことを覚えています。
それ以降、腸から意識が離れていき、徐々に苦痛が消えていったような気がします。


2002年(30歳)から退職する2012年(40歳)までの間は
精神科にもずっとかかっていましたが、その他にも不定愁訴で、
内科、整形外科、口腔外科などにも年中かかっていて、相当な医療費を支払っていました。


仕事を辞めた今は殆ど病院へ行くことは無くなりました。
それを考えると、これらの不定愁訴は、
全て仕事のストレスから来るものだったのだと考えられます。
本当に、私には会社員生活が向かなかったのだなと思います。


その13 に続く

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16年間の会社員生活について その11  

16年間の会社員生活について その1~10はこちらから
         10

■はじめての精神薬

2002年(入社7年目 30歳)
仕事には相変わらず興味が持てず、生きていくためのお金を得るために、
与えられた仕事を淡々とこなす日々が続いていました。

私生活では、1999年秋に大学時代から付き合っていた今の妻と結婚し、
その翌年の2000年、上の子供が生まれました。
家庭を持ち子供が生まれ、益々仕事を辞めることができなくなった
といった強いプレッシャーを感じるようになりました。


2002年のある時期、ずっと製品の測定をしていた時がありました。
1日中モニターを眺めて作業をしていたところ酷い眼精疲労になり、
仕事も終わってからも目の奥の痛みは続き、夜も痛みで眠れないぐらいでした。

目は痛い、でも仕事はしなくてはならない。
このことがきっかけで食欲は無くなり、夜も眠れなくなり、
早朝覚醒も起るといったような抑うつ状態となり、
会社に週に1度診察に来ている精神科医に見てもらうことになりました。


精神科のT先生は、都内で開業している40歳ぐらいの先生で、
話を良く聞いてくれて、とても安心したのを覚えています。

診断の結果、鬱とは言われなかったと思いますが(記憶が定かではない)
少し薬を飲んでみましょうということになり、
スルピリド(ドグマチール)50mg、頓服で不安時にエチゾラム(デパス)0.5mg
寝る前に、睡眠薬代わりにエチゾラム(デパス)0.5mgを処方されました。


はじめてデパスを飲んだ時は感動しました。
これまで苦しんでいた不安感が全く無くなってしまう。
こんな便利な薬が世の中にあったのかと驚きました。

寝る時も、デパスを0.5mg飲んだだけで数分で意識が無くなり、
気が付くと朝になっている。
ぐっすりと眠れるようになりました。

その後は耐性が付いて、あまり効かなくなりましたが、
ベンゾジアゼピン系の抗不安薬は、私はそれなりに効きました。

一方、抗うつ薬はあまり効果が実感できませんでした。
抗不安薬ほどの即効性は無いにしろ、薬を飲んでいても
鬱状態が良くなっているという感じはしませんでした。



精神薬を飲み始め、また、測定の仕事も私一人ではなく
他のメンバーに手伝ってもらうようになり、
食欲不振や睡眠障害も徐々に良くなりました。
そして、3ヵ月ほどで薬を止めることができました。


その12 に続く

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16年間の会社員生活について その10  

16年間の会社員生活について その1~9はこちらから
        


■上司のYさんの配慮

1999年(入社4年目27歳)
異動になり、直属の上司となったYさんは、私より6歳年上のとても優秀な人でした。

少し話は逸れますが、この会社で16年勤め色々な上司を見てきましたが、
上司には下記の2つのタイプがありました。

(1)本当に優秀な人
どんなに頑張っても、この人には絶対追い付けないだろうなと思えるほど
優秀な人が何人かいました。
この人たちは、先天的に優れた何かを持っている人と考えられます。
それに努力が加われば、凡人は追い付くことができません。
このタイプの人たちは、その後どんどん出世していきました。

(2)努力の人・運良く空いたポストにすべりこんだ人
一方で、何でこの人が役職に付いているの?と思えるような上司もいました。
真面目にコツコツと仕事をしている姿は美しく見えますが、
私から見て「頭の切れ」は全く無く、仕事に進め方に関してもスマートには見えませんでした。
仕事はあまりできなくても、社内政治には優れていたりします。
運よくポストが空いて、出世できたような上司もいました。
このタイプの人たちは良くて部長までしか出世できませんでした。


と、話は少しそれましたが、
私の直属の上司となったYさんは、前者の本当に優秀なタイプの人でした。

生産技術部3課の業務は、研究開発的な要素が強く、
新しい加工法の開発をしていました。

実験をして、レポートにまとめ、再度実験をする
といったことを繰り返していました。
私は実験をすることは好きでしたが、その後の実験結果をまとめたり、
考察して次の実験計画を立てることが苦手で、いつもそこで躓いていました。

それを見ていたYさんが
--------------------------------------------------------------------------
ニックさんは手を動かすことはとても早く正確だけど、
考えたり、計画を立てるのは苦手だよね
--------------------------------------------------------------------------
と言い、私が実験に専念して、Yさんが実験結果をまとめたり、計画を立てるといった
分業制にしてくれました。その方が効率が良いと考えたのでしょう。
その結果、これまでに無いスピードで仕事が進むようになりました。
この頃は仕事がやりやすく、苦しい思いはあまりしなかったような気がします。


後に、鬱で入院した病院で発達障害を疑われ心理検査をしましたが、
その報告書の中には以下のように書かれています。
--------------------------------------------------------------------------
(私の特徴として)
物事に対して、多くの人がそうするであろう型通りのやり方で対処していく傾向にあります。
慣れた作業を淡々とこなしていくことは得意ですが、対処することが複雑になったり、
臨機応変を求められることは苦手ではないかと考えられます。
また、状況の変化に対しての動揺が大きいと考えられます。急な状況の変化は苦手ですが、
慣れていくに従い自分に合ったやり方で対処していく力はありますので、焦らずいつもの
ペースを取り戻していけるとよいかと思います。
--------------------------------------------------------------------------
ここにも書かれているように、私は定型業務の方が得意です。
そして、それに慣れると効率良く業務をこなしていくことができます。


Yさんが上司になった1999年当時は、発達障害という言葉もあまり聞かず、
そういった人達への理解は無かったと思われますが、
(日本で発達障害者支援法が制定されたのは2005年4月)
Yさんは私の適性を見抜いたうえで、仕事を配慮してくれた。
とても有難かったです。


私のような自閉症スペクトラム障害の人でも、
上司や職場の配慮があれば、能力を発揮できる場合もあると思いますが、
そういった環境を得られるのは、まだ一部の人に限られていると思います。


その11 に続く

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16年間の会社員生活について その9  

16年間の会社員生活について その8 からの続き
      はこちらから

■生産技術部3課へ

1999年(入社4年目) 4月
東京にある生産技術部3課での勤務が始まりました。
上司は新任のI課長、直属のリーダーも新任のTさんでした。

異動して数ヵ月経過したある日のこと、
昨年末に面談したK部長と廊下ですれ違ったときに声を掛けられました。
「新しい部署での仕事には興味が持てそう?」と
私はとっさに「はい、興味があってやりがいがあります」と嘘をついてしまいました。
その時のことは、今でも鮮明に覚えています。


私は16年間勤めたこの会社で、最終的には鬱になって辞めてしまうのですが、
最大の苦痛は「仕事に興味が持てなかった」ことでした。

私が最近読んだ発達障害の本(発達障害のいま 講談社現代新書 杉山登志郎 著)に
自閉症スペクトラム障害について書かれているのを読みました。
その特徴の中に
---------------------------------------------------------
・興味の偏りが激しい
自閉症スペクトラムの場合、当然ではあるが、興味のあることとないことの間に
著しい落差があって、興味がないことに無視するということが実に多い。
---------------------------------------------------------
まさに私のことだと思いました。

自閉症スペクトラム障害の人は、興味の範囲がもの凄く狭いのです。
一般の人なら、興味が持てないことでも仕事と捉え、
業務をこなしてくうちにそれなりに適応していきます。

しかし、私のような自閉症スペクトラム障害の人は、
興味がないことは苦痛でたまらない。うまく適応できないのです。
私の感覚では、一般の人は8割ぐらいの仕事に適応できるのに対して、
自閉症スペクトラム障害の人は、1割ぐらいしか適応できないように思えます。

しかし、自閉症スペクトラム障害の人でも、運良く興味あることに巡り合えれば、
その仕事(物事)に対しては深く入り込んで行けるので、
大きく成功する可能性が高いと考えられます。


入社4年目
この会社では自分に合う仕事、興味が持てる仕事が無いように感じ始めました。
仕事にやりがいを求めるのは止めよう。
お金をためと割り切って働くようにしよう。
仕事に希望が持てず、仕事が苦痛になりはじめたのは、丁度この頃からでした。


その10 に続く

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16年間の会社員生活について その8  

16年間の会社員生活について その7 からの続き
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■十二指腸潰瘍の再発

1998年(入社3年目)の秋

相変わらずの長時間労働。
以前のように、毎日深夜2:00まで働くという勤務ではありませんでしたが、
週に2~3日は0:00近くまで働いていました。
時々20:00頃の帰れると嬉しかったです。

これだけ働いても残業代は10時間までしか支給されず、働くことに虚しさを感じていました。
その上、東京に帰りたい気持ちも強くなり、
日々のストレスはピークに達しつつありました。


前年、十二指腸潰瘍で入院した市立病院には退院後も定期的にかかっていて
薬(オメプラール、その後ガスター)を服用していましたが、
症状が急速に悪化し、また下血をするようになりました。
病院では再入院を強く勧められましたが、仕事を休む訳にはいかなと思い
通院しながら仕事を続けることにしました。

今だったら迷わず入院・休職していたと思いますが、
当時は若く、これ以上休むと仕事に置いていかれることに怖さがありました。



1998年の年末頃だったと思いますが、生産技術部のK部長と面談がありました。
その席で私は、生産技術部2課の働き方の不満を話し、
十二指腸潰瘍を繰り返していることもあり、これ以上はここの部署ではやっていけず、
異動したいといった希望を述べました。

私の上司であるH課長も、長時間労働に耐えられない私を
戦力にならないと思っていたことでしょう。
K部長とH課長の判断で、私は東京にある生産技術部3課への異動が決まりました。



1年半で東京に帰ることになりましたが、
この地での楽しかった思い出も少し書いておきます。

同じ部署で入社が1年早い、酒好き、女好きのMさんが
良く飲みに連れて行ってくれました。
この地ではキャバクラなるものは無くて、フィリピンパブばかりでした。

そのフィリピンパブも安い。
田んぼの真ん中にあるバラック小屋のようなところが店舗で、
看板も何も無く、見た目にはお店とは分からないようなところでした。
二次会で22時頃から飲み始めて、閉店(深夜2:00頃)までいても
飲み放題で一人3,000円ぐらいでした。
(※東京だと、黒服に交渉して値切って1時間3,000円ぐらい)
聞くところによると、農家の兼業でフィリピンパブを経営しているそうです。
そんなお店が何件かありました。

あとは寮の近くに中華料理屋があって、そこには良く飲みに行きました。
安くて美味しかったです。
焼肉屋でも良く飲みましたが、寮からは少し遠いので代行を使って行きました。
田舎なのでチェーン店系の居酒屋などは皆無でした。

お酒を飲んでいる時だけは、
仕事の辛さを忘れることができ、幸せな気分になれました。
(十二指腸潰瘍でも普通に飲んでいました。流石に下血している時は控えましたが)


一緒に仕事をしている人達は本当に良い人ばかりでした。
元々この地に住んでいる地元採用の人は情に厚く、色々とお世話になりました。
入院した時にお見舞いに来てくれたり、家に招待してくれたり、登山に連れて行ってくれたりetc
仕事には恵まれませんでしたが、ここでも一緒に働いた人達には恵まれました。


その9 に続く

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16年間の会社員生活について コメントへの返信  

mooncloudさんからコメントを頂きました。
16年間の会社員生活について その7
返信が長くなりましたのこちらに書きます。

mooncloud さんは、私が無職時代に知り合った友人の一人です。
彼は当時、東京の自由が丘に住んでいて、私が職を失って鬱が回復したばかりの頃、
二子玉川(東京・世田谷区)の喫茶店で会って話をしました。
今から6年前、2014年3月のことだったと思います。
それが縁で、彼が大阪に引っ越してからも年に数回会うようになりました。

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就職支援会社は僕も登録しました。大阪限定職で年550万円。
残業、休日出勤手当込みということでした。
当時働いていた会社からすればあまりに条件が悪いので、世間の厳しさを知りました。
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転職活動の多くは、スキルアップや収入アップを目指すものが多いと思いますが、
私の場合、働いていた職場の長時間労働が嫌で、その状況から逃げ出したい一心だったため
仕事内容や収入についてはあまり考えませんでした。

転職支援会社で嫌だったのは、
早く転職先を決めて欲しいという担当者からのプレッシャーでした。
私は仕事を続けながら、良い会社が見つかったら転職したい程度にしか思っていませんでしたが、
転職支援会社の担当者は、転職先を紹介することでフィーが発生するので、
短期間に多くの人を転職させたかったたように思えます。
途中から、転職をせかされて嫌になりました。

これは退職後、再就職支援会社を利用した時も同じでした。
鬱であまり調子が上がらず、のんびりと再就職先を探したかったのですが、
せかされたため退会しました。
ちなみに、転職支援会社も再就職支援会社も同じリクルートでした。

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つげ義春が話題になっていますね。僕も彼の貧困旅行記を読んだことがあります。
図書館の旅行のコーナーに置いてありました。全国の温泉ならぬ鉱泉を巡るという
少し変わった旅行記でした。
面白くて何度も読みました。ちょうど休職していた時期なので、
自由な生き方に共感しいていいたようにも思います。
-------------------------------------------------------------------------------
その本も面白そうですね。機会があったら読んでみます。

私の会社員生活の前半は、自由ということには興味は無く、
社会的地位や金銭的な裕福さを求めていました。
他人から良く思われたい。他人から羨まれるような生活をしたい。
人と比較して、優位にある立場でありたという選民意識が強かったです。

皮肉なことですが、今となっては最も軽蔑するような人たちのように
自分はなりたいと思っていました。今よりも心が貧しかったです。


今は無職であり、自由に生きていますが、その生き方は私も好きで合っています。
しかし、自由に生きていくためには代償もあります。
無職の場合には、社会的の地位のなさだったり、貧しさだったり、生活の不安定さだったり。
そういったものを受け入れた上で価値があると思えれば、
自由な生き方をすれば良いのです。


私は無職やセミリタイア生活が素晴らしいから
みんなもやった方が良いとは全く思いません。

私にとっては合っている生き方であっても、他の人にとっては良いとは限らないからです。
能力があって社会でバリバリに働くことが心から楽しいと思える人も
この世の中には一定数いるはずです。

生き方には色々あります。
その中から、自分が楽しいと思える、居心地が良いと思えるような生き方を見つけることができ、
かつ、世間からどう思われようが、まわりの目を気にすることなく
それを実践することができれば、その人は幸せと言えるような気がします。

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その7  

16年間の会社員生活について その6 からの続き
     はこちらから

■転職活動

1998年4月 入社3年目
プロジェクトが失敗に終わり、新しい仕事がはじまりました。

部署や上司は同じままで、新しいテーマに取り組むことになりました。
私は50代後半のSさんと一緒に仕事をしました。
Sさんは元々は管理職でしたが、技術系の仕事をしたということで
管理職を降りて生産現場に戻ってきた人です。
技術的なことは本当に詳しくて頼りになる人でした。
前のプロジェクトでのMさんもそうでしたが、
私の部署のベテラン社員は、技術の面で優秀な人が多かったように感じます。


プロジェクトが終了して新しい仕事になったものの
長時間労働は相変わらずでした。
8:00に出社して、帰宅するのは23:00頃が多かったです。

長時間労働も辛かったですが、ホームシックにもかかっていました。
地方の工場へ来て1年半が経ちましたが、なかなか田舎の空気には馴染めませんでした。
寮には同期入社の同僚が5人いましたが、彼らと一緒に行動することはありませんでした。
決して仲が悪かった訳ではありませんが、一人で居ることの方が居心地が良かったです。

また、東京のように一人で出かけられるようなお店や施設も近くにはありませんでした。
どこへ行くのも車でないと行けないので、お酒を飲みに行くこともできません。
仕事面の不満に加え、環境面でのストレスも積もり積もって、
転職を考えるようになりました。


いつの頃かは覚えいませんが、東京に戻るために転職活動を始めました。
転職支援会社に登録した後、担当者と面談をして、何社か紹介してもらいました。
紹介してもらった企業は外資系が多かったです。
そのなかで、半導体の外資系メーカーが私に興味があるということで面接をすることになりました。

ある日曜日、横浜にあるオフィスで面接をしました。
人事の人と面接をした後、日曜日だけど社長が出社しているので会ってみないかと言われ、
社長とも面談しました。
社長はとてもやさしく人当たりの良い人だった事を覚えています。

人事の人、社長との面接ではどんな話をしたかは全く覚えていませんが、
社長から「ニックさんは、とても良い会社の生産技術部に折角入ったのだから、
もう少し頑張ってみた方が良いと思うよ」と言われたことだけ覚えています。
(やんわりと、採用を断られたようにも思えます。)

私だって、はじめは「良い会社」と思っていましたが、
実際はとんでもない職場で、酷い目にあってきたのです。
内実も知らないで・・・と、軽い反感を抱きましたが、
今考えると、世の中の会社は、どこも同じようなものなのかもしれません。


入社3年目のこの頃は、自分の中でも、こんな直ぐに今の会社を辞めてしまって良いのか?
といった葛藤もあり、もう少し今の会社で頑張ってみることにしました。
そして、転職活動は一時中断しました。


その8 に続く

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その6  

16年間の会社員生活について その5 からの続き
    はこちらから

■プロジェクトの解散とプロジェクトのメンバー

1997年6月。職場に復帰しました。
1ヵ月の間留守にした寮に戻ると、辺りの景色は様変わりして、
すっかり初夏の様相を呈していました。
寮の周りはすべて田んぼだったので、夜はカエルの鳴き声がうるさいぐらいでした。


入社2年目にして病気休職。
この頃は、まだこの会社で頑張ろうと思っていました。

復職すると、病気療養明けの私だけが定時勤務を命じられました。
早く帰れるのは嬉しいことでしたが、遅くまで働いている他のメンバーのことを考えると
とても後ろめたい気持ちになりました。

その後、プロジェクトは色々なことが見直され、改善策が講じられましたが
採算が合わないという理由から打ち切られ、解散することになりました。
プロジェクト開始から1年半。1998年3月末のことです。

プロジェクトのメンバーは私を含めて6名でした。
その一部を紹介します。

・K.S.さん(30代前半)
 プロジェクトリーダー
 新婚で子供が生まれたばかりでした。

 最年長メンバーのMさんに、いつも、
 「K.T.は子供が生まれたばかりなのに子供に会えなくて可哀そうだ」
 と言われていました。
 当時独身だった私には、あまりピンとくる言葉ではありませんでしたが、
 家庭を持った今なら、K.S.さん本人も、そして家族も大変だっただろうなと想像できます。

 後にK.S.さんは、このプロジェクトを始めるにあたって試算した計画書の数字を
 作り上げてしまった、失敗するのは分かっていたとメンバーに告白し、謝罪しました。

 プロジェクトを推進していたH.S.課長に計画書を提出した所、
 何度も見直すようにと計画書を戻されて、H.S.課長が満足するような数字を作り上げてしまったと。
 会社員生活を円滑に続けていくには、なかなか上司には逆らえません。
 プロジェクトリーダーであるK.S.さんは、最大の被害者だったと思います。


・Mさん(40代前半)
 メンバー最年長の技能者。地元採用の社員。
 加工に困った時はいつも助けてくれました。
 私は「職場の働き方が異常である」という愚痴を、ことあるごとにMさんにこぼしましたが、
 「このあたりでそれなりの給料をもらえるのは今の会社ぐらいだから」といつも一蹴されました。
 
 仕事が少ない地方では、労働者は足元を見られます。
 不景気になり仕事が少なくなると、やはり労働者は足元を見られます。
 だから景気は良いに越したことはありません。


・K.T.さん(20代後半)
 私より6歳年上のK.T.さんは、どんなに仕事が忙しくても定時の17時なると、
 用事があると言って帰っていました。
 まわりからどう思われようが良いという割り切った姿勢は、私には真似できませんでした。
 そのため彼は周囲のメンバーからは疎われ、会社に居づらくなったのか、その後転職しました。
 あの職場は異常だったで、逃げ出せたことは良かったのかもしれません。


・H.Y.さん(40代前半)
 同じプロジェクトのメンバーではありませんが、隣のプロジェクトのリーダーでした。
 頭を丸刈りにして貫禄があったので住職と呼ばれていました。
 彼は、自分のプロジェクトに参加していた他部署のメンバーに対しても、
 「うちの部署の定時は7:00-21:00だから」と公言し
 勝手に長時間労働を強いていました。実際はみんなそれ以上働いていました。

とにかく生産技術部2課の働き方は異常でした。
それに対して、だれもが異議を唱えることなく言われるがままに働いていました。
だから、この部署の成果は部内では常にトップクラスでした。
それはこういった人柱の上になりたっていたのだと思います。


その7 に続く

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その5  

16年間の会社員生活について その4 からの続き
   はこちらから

■入院

毎日18時間働く生活が続いたある日のこと、
このままではみんな参ってしまうということで、交代勤務を始めることになりました。
 日勤は、8:00-18:00
 夜勤は 18:00-深夜4:00
だったと思います。
これで長時間労働から解放されると、とても嬉しかったことを覚えています。

しかし、そんな喜びも束の間のことで、直ぐに失望へと変わりました。
私は若く独身だったということもあって、基本的には夜勤でした。
当初は18:00-深夜4:00という10時間労働でしたが、それでは仕事が間に合わず、
リーダーから16:00に出社して欲しいと頼まれました。

更に、深夜4:00までに仕事が終わらず、朝6:00まで働くようになり、
日勤組が出社する朝8:00からのミーティングにも参加してほしいと言われ、
朝の9:00過ぎ、遅い時は10:00頃まで働くようになりました。

最終的には、16:00-翌朝9:00までの17時間労働。
交代勤務前の8:00-深夜2:00までの18時間労働と対して変わりませんでした。

むしろ、食事が不規則なり、
空腹が厳禁である十二指腸潰瘍は悪化の一途を辿りました。
殆ど食べないまま仕事を続けていたので、
(仕事で疲れ果てて食欲は全く無くなりました)
この勤務が2週間程続いたある日の朝、8:00からのミーティング中に突然気分が悪くなり、
トイレに駆け込んで嘔吐しました。
嘔吐物は真っ黒で、吐血だと分かりました。


そのまま医務室に行き、病院へ行くように指示され、
市立病院で内視鏡検査をして即入院となりました。
これであの激務から解放され、ゆっくりベットで眠れると思うと、
胃の痛みや苦しさよりも、安堵感の方が大きかったことを覚えています。
入社2年目、1997年5月の事でした。


入院生活は2週間続きました。
最初の1週間は完全絶食で、栄養は点滴でとっていました。
何も食べなくても全くお腹が減らず、不思議な感じがしました。

2週間の入院生活が終わった後、自宅療養となり東京の実家に帰りました。
自宅療養も2週間。それなりに幸せな時間だったように思えます。
1ヵ月の病気療養の休職後、再びプロジェクトへと戻りました。


後日聞いた話によると
入院した市立病院の主治医から、会社の医務室に
「会社の働かせ方は異常であり、今回の病気は労災だ」
と厳しい指摘があったそうです。
30代前半の若い主治医で、内視鏡の操作が慣れていなくて
検査では酷く苦しんだけど、良い先生だなと思いました。

その6 に続く

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その4  

16年間の会社員生活について その3 からの続き
  はこちらから

■生産技術部2課へ

東京からバスに乗って新天地へ。
バスを降りると、9月下旬だというのにとても寒かったです。

その工場は、山間の田んぼの中にポツンとありました。
住んでいた寮は最寄り駅からは20分程でしたが、電車は1時間に1本。
夜になると電灯も無く真っ暗になり、どこを歩いているか分からなりました。
月が出ている時は、月明かりで道があることが分かりました。


激しい胃痛と下血が続くまま、単身で地方の工場へ行くのは不安でしたが仕方の無いことでした。
新しく住む寮がある町には大きな病院が無く、会社の医務室の紹介で
車で30分程の市民病院にかかることになりました。

検査の結果、十二指腸潰瘍と診断されました。
そして、下血が続いたせいか貧血も酷いと。
新しく住んだ寮の部屋は4階でしたが、階段を上る時息苦しくて
休みながら上ったのはそのせいだと分かりました。


新しい部署での仕事は、当初はそれ程忙しくはありませんでしたが、
プロジェクトが進行するに連れ忙しくなり、3ヵ月ほど経ったころには
毎日18時間働くようになりました。
会社の定時は8:00-17:00まででしたが、
朝8:00-深夜の2:00頃までみんな当たり前のように働いていました。
入社してまだ1年程しか経っていない私には、それがとてもショックでした。


疲れ果てて深夜の寮に帰っても、夕飯が残っていないときも多く、
そういった時は、車に乗ってコンビニに夕飯を買いに行きました。
それからお風呂に入って寝る。
寝るといっても2~3時間仮眠をとればもう朝で仕事でした。
疲れている時は、食事も食べないまま寝てしまいました。

人間とは恐ろしいもので、そういった生活がずっと続くと慣れてしまうものです。
たまに22:00頃に帰れると、時間が沢山あって何をして良いのか分からない。
1時に寝て7時に起きても6時間寝たことになり、寝過ぎだと思えるぐらいでした。


これだけ仕事をしても、残業代は殆どもらえませんでした。
私の部署の残業の上限は10時間までと決められており、
それ以上の仕事?は自己啓発であり、残業代が付かないことを各自が承知の上で
自主的に会社に残っている、というのが暗黙の了解でした。
現在であるば問題になっていると思いますが、今から20年前は、
サービス残業がまかり通るような風潮でした。


毎日、働いている時間以外は、食事をしているか寝ているだけ。
残業代も支給されない。奴隷のような生活でした。


その5 に続く

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その3  

16年間の会社員生活について その1
16年間の会社員生活について その2
からの続き

■入社半年で異動

8月のある日、1日だけ工場実習から戻ってくるように職場から連絡がありました。
職場へ行くと、上司に個室に呼ばれて「10/1から別の部署に異動して欲しい」と言われました。
そこは、東京から遠く離れた地方の工場で、新しいプロジェクトが始まるため、
そのメンバーになって欲しいとのことでした。


入社してやっと今の部署に慣れたと思ったら工場実習、
生活面でストレス一杯の工場実習が終わり、
もうすぐ元の部署に戻れると思ったら地方の工場へ異動。
環境の変化の連続でストレスが積み重なり、下血するようになりました。

この時は、まだ病院には行っていませんでしたが、
過去の経験から十二指腸潰瘍を患っていることは直ぐに分かりました。
私が最初に十二指腸潰瘍を発症したのは高校受験を控えた中学3年の時。
その時と同じ、耐え難い痛みでした。

異動前の9月中旬、部署で送別会をしてもらったのですが、
そこでも急にお腹が痛くなってトイレに行ったら
酷く下血したことを覚えています。


9月末、生産技術部1課最後の日。
仕事を終え、夕方バスに乗って新しい赴任先へと向かいます。

バス停へ行き、バスに乗ろうとすると、
入社して以来半年間一緒に仕事をしてきた同じ部署のメンバーが見送りに来ていました。
その姿を見て不覚にも泣いてしまいました。



このことは後にも書こうと思っていますが、
16年間の会社員生活で、嫌いな人(上司を含む同僚)、意地悪だった人とは
全く巡りあいませんでした。
これは単に運が良かったのか、私が鈍感で気が付かなかっただけか。

仕事以外の日常生活の中では、
多くの友人を軽蔑し、忌み嫌ってきた過去を考えると、
どうやら私の出会ってきた職場の人たちは、良い人ばかりだったような気がしてなりません。

仕事を辞めたり、仕事に悩んでいる人の話を聞くと、
多くの人(殆どの人)が人間関係でつまづいているように感じます。
そういった面では、私の16年間の会社員生活は非常に恵まれていたと思います。


その4 に続く

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その2  

16年間の会社員生活について その1 からの続き

■工場実習

最初に配属されたのは生産技術部1課でした。
ここでは射出成型に関する技術開発をしていました。
私より7歳年上のKさんに付いて、しばらく間は仕事を教えてもらいました。

入社して3ヵ月経過し、ある程度仕事に慣れた頃工場実習が始まりました。
工場実習は地方にある子会社の工場で行われました。
その工場は、廃校になった小学校をそのまま使った工場で、
そこで射出成型加工の実務実習を行いました。


工場実習は、例年3か月程連続で行われ、
その間は近くのビジネスホテルに泊まるのが通例でしたが、
私が入社した時は予算があまり無いとのことで、
小学校の敷地内にある用務員室に寝泊まりました。

その用務員室には、私の他に中国人の実習生2人が住んでいました。
とにかく古く汚い建物で、至る所にゴキブリがいました。
あまりにもゴキブリが多いので、ゴキブリホイホイを買ってきたら
1~2日で一杯になりました。

食事をするお店も近くには全く、朝はコンビニのパン、
昼と夜は近くの弁当屋の配達するお弁当を食べていました。
このお弁当は、量も少なく、あまり美味しくないのでかなり堪えました。


また、工場は駅からかなり離れており、タクシーで20~30分の距離でしたが、
タクシー代が勿体ないということで、宅急便で自分の自転車を送らされ
その自転車で移動していました。

前年入社したMさんの時は、別の工場での実習でしたが、
彼の実習先の工場は、近くにビジネスホテルが無かったため、温泉旅館で3ヵ月寝泊まりし、
毎日豪華な夕飯を食べていたとのことでした。
先輩たちから、「(温泉旅館に泊まっていた)Mに比べ、ニックは可哀そうだな」
と同情される度に酷く落ち込んだことを覚えています。
入社年度が1年ズレるだけでこうも違うものか。人生は理不尽なことの連続だと悟りました。


工場実習は定時勤務で、時々2時間ぐらい残業がありました。
しかし、帰る部屋は古く汚くゴキブリのいる元用務員室。
工場の周りには何も無く、出掛けるところもありません。
唯一の楽しみの食事も、少なく美味しくないお弁当。
ストレスがかなり溜まり、この頃から胃が痛くなってきて体調に不調を来してきました。


また、入社して以来あまり気にしていませんでしたが、
生活環境が変わったことによる疲れも出ていたように思えます。

学生生活 → 社会人生活へ
配属された部署の生活 → 工場実習へ
慣れてきたと思った頃に、また違う環境に放り込まれる。
私はこういった変化に対応するのが苦手なので、クタクタになっていました。


自閉症スペクトラム障害は、変化に弱いと言われています。
------------------------------------------------------------------
ある特定の物や状況に著しい執着を示し、それを一定の状態に保っていようとする欲求に
本人が駆られた結果、それが変わること、変えられることを極度に嫌う
------------------------------------------------------------------
心理科学第39巻第2号P91より引用

私が鬱で入院中に、主治医が自閉症スペクトラム障害を疑ったのには理由があります。
鬱の状態が酷く、希死念慮があった私は当初は閉鎖病棟に入院していました。
しかし、鬱が良くなってきたので解放病棟へと移ったのですが、
そこの環境に馴染めなかった私は、主治医に閉鎖病棟に戻して欲しいとお願いしたのです。
後日、「解放病棟から不自由な環境である閉鎖病棟に戻りたいといった患者を初めて見た」と言われ、
私が発達障害であることを疑ったそうです。

私は、閉鎖病棟で一度作り上げた生活環境、人間関係(他の患者さんや看護士さんとの関係)
を保っていたい、変えられなくないという欲求が強くありました。
だから、閉鎖病棟に戻りたかったのです。

治療する医師からすると、閉鎖病棟→解放病棟→退院と、患者の回復に合わせて、
ステップを踏んで社会復帰を目指すという方針になるのですが、
私の場合、それができなくて閉鎖病棟からいきなり退院となりました。



そんな変化に弱い私が、更なる変化を強いられる出来事がありました。


その3 に続く

category: 無職・仕事

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16年間の会社員生活について その1  

■初めに

以前、今でも仕事をしている時の夢を見るということを書きましたが、
悪夢 その1
私にとって、16年間の会社員生活とはどんなものだったのかをを詳細に書きたくなりました。
かなり長くなると思うので複数回に分けて書こうと考えています。

また、私の働いていたのは1996年4月~2012年11月までです。
今から20年以上前の出来事もあり、記憶があやふやなところもあるので、
正確では無い部分もあることはご承知おき下さい。


退職後、鬱で入院した病院の主治医に、
私は「高機能自閉症スペクトラム障害」の可能性があることを伝えられました。
会社員として働いた当時は、このことは全く分かりませんでしたが、
今振り返ると、私が仕事で苦しかったり、辛かったり、
鬱になってしまった理由が分かるような気がします。
そういったことも併せて書いていければ良いかなと思っています。


■入社1年目

1996年、理系大学の機械工学専攻科の大学院を卒業して、会社員として働き始めました。
大学時代は金属材料の研究をして、第一志望の機械メーカーに就職し、
配属されたのは生産技術部でした。

希望していた製品開発の部署ではありませんでしたが、
前途洋々、希望に満ち溢れた幸福感と、これから定年まで続く、
長きに渡る社会人生活への不安が入り混じっていた感情が昨日のことのように思えます。


入社して2週間ほどは研修の日々でした。
名刺の渡し方、電話の取次ぎ方などの、社会人としてのマナー教育を受けたり、
エクセルやワードの使い方といった、パソコンのスキルの習得をしました。

研修が終わると寮に帰って、お風呂と夕飯。
寮は光熱費込みで1ヵ月2万円ぐらい。夕飯も1食500円ぐらいだったように記憶しています。
お風呂も大浴場があって、学生時代一人暮らしをしていた頃の狭いお風呂を考えると
天国のように感じました。

会社員生活の最初の印象は、
色々なスキルを習得できる上、給料まで貰える。
安い寮に住めて、食事もお風呂も用意されている。
夢のような生活だと感じました。


16年間の会社員生活では、一貫して生産技術の仕事をしてきました。
その間、3つの部署で業務を行ってきました。
便宜上、下記の名称とします。

生産技術部1課(1996年4月~同年9月) 0.5年
・主に射出成型加工
生産技術部2課(1996年10月~1999年3月) 2.5年
・主に旋盤加工
生産技術部3課(1999年4月~2012年11月) 13年
・主に研削加工


その2 へ続く

category: 無職・仕事

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悪夢 その1  

今朝は悪夢を見て目を覚ましました。
起きた今も胸が苦しいです。

私ははっきりとした夢を見ます。
そして、その夢を覚えています。
その時の風景、登場人物、自分の感情など
かなりくっきりとリアルに覚えています。

妻にそこのことを話すと不思議がられます。
夢は見るけれど、私のようにははっきりと覚えていないようです。

今日見た悪夢は4つで、それは連続していましたが
場面は突然変わります。


高校生の僕は自宅にいます。
自宅というのは当時住んでいたマンションの4畳半の自分の部屋です。
時間は午後の15時。
部屋のカーテンは閉まっていて、僕は布団に潜り込み
これから寝ようとしています。

そこへ、父親が帰ってきて私の部屋のドアを叩きます。
今の年老いた父では無く、私が高校生の頃、40代後半の若い父です。
スーツを着ています。会社から慌てて帰ってきたのでしょう。

父は僕が高校へ行っていないこと、昼間から寝ようとしていることを
激しく問いただします。

僕は母のいるリビングに行き、
父に連絡したことを激しく抗議します。



機械工学科の大学に通っていた時の実習の風景です。
みんなで機械加工をしています。
すべての加工が終わって、後かたずけをしている人も何人かいます。
僕も片づけを始めようとした時、一つ部品を加工し忘れたことに気が付きました。

そのまま誤魔化して、忘れてしまった振りをしようかと思いましたが、
後々困るのは自分なので、技師の人に正直に話して、
私だけ居残りでその部品を作ることになりました。

しかし、その部品を作る材料が丁度なくなってしまい、
技師の人と2人で探しに行くことに。
なぜか、昔働いた会社の大きな薄暗い工場に行きます。

沢山の作業着を着た人がいます。
昼休みなのか、多くの人は作業を止めて休んでいます。
あー、また、ここに戻って来たのだなと暗い気持ちになりました。



昔勤めていた会社にいます。
でも、景色は僕が通っていた高校の3階の廊下に似ています。
そこには泣いている僕がいます。

涙が溢れて止まりません。
仕事がうまくいかず、嫌で嫌でたまらなないのです。
これから医務室に行く所です。産業医との面談です。
でも、足がとても重くて体が前に進みません。

しばらく精神薬を止めていたのですが、産業医と面談すれば、
また精神科通いが始まるでしょう。
薬を飲めば多少は気分が楽になることを知っているので、
少しほっとした気持ちになっています。
精神科の先生と相談して、また休職しても良いかなと思いました。

会社の医務室に行くのに、なぜか母親が出てきます。
足が重く体が前に進まない私の背中を母は押し、
僕を無理やり歩かせようとします。

僕は母に怒鳴ります。
「もう大人なんだから、放っておいてくれ」



平日の昼間。大きなアウトレットモールにいます。
高校生の僕は休学することになりました。
この先どうなってしまうのだろうという不安感で一杯でした。

どうやら僕は、高校3年の途中から鬱で休学することになったようです。
勉強が嫌いだったので、しばらく休むのも悪くないと思いました。
1年流年して、心を新たにして一から3学年をやり直そうと思いました。
でも、数学は何とかなるとして、英語は不安だな。
そもそも本当に高校を卒業できるのだろうか?と不安は益々大きくなっていきます。

高校は卒業できそうだけど、大学へ行くのはもう無理だな。
そもそも高校を卒業できるのだろうか?
高校を中退してしまったら、ありつける職はあるのだろうか?
そう考えると不安で不安でたまらなくなりました。




ここで目を覚ましました。
とれもリアルな夢でした。
半身を起こして、放心状態になっていると
隣で寝ていた妻が、どうしたの?と心配そうに声を掛けてきました。

これらの物語はすべて夢で、現実の出来事ではありません。
でも、全くの架空の出来事かというとそうでもなくて、
全てが私の過去の出来事と少なからず繋がっています。


次回はこの夢につながる私の過去について
書いてみようと思います。

つづく

category: 無職・仕事

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超高齢化社会  

高齢化の進行具合を示す言葉として、高齢化社会、高齢社会、
超高齢社会という言葉があります。
65歳以上の人口が、全人口に対して7%を超えると「高齢化社会」、
14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と呼ばれます。
日本は、2007年に超高齢社会へと突入しました。


確かに郊外にある私の住む街は、お年寄りだらけです。
昼食を食べに行っても、お年寄りが昼からお酒を飲んでいます。
図書館も学生よりもお年寄りの方が多い。
散歩に行っても、子供よりもお年寄りとすれ違ってばかりです。
先日行った床屋は、店主も、店員も、お客もお年寄りだらけ。
48歳の私は明らかに若手です。


その床屋、仕事を辞めた8年ほど前から通い始めました。
当時、店主は60代半ば位でしたので、今は70歳を超えていると思います。
最近は、耳の周りを切ってもらう時、主人の手がプルプルと震えているのが分かります。
昔はこんなことは無かったのに・・・。

先日は、洗髪が終わって、マッサージをしてもらって、眉毛を切ってもらったら
「如何でしょうか」と鏡を持ってくる。
あれ?ドライヤーで頭を乾かしていないような気がするけど、気のせい?
眠くてウトウトしていたから、その間終わってしまったのかなと。
支払いを済ませ、店の外に出て頭に手をやると、髪の毛がビシャビシャに濡れている。
やはり気のせいでは無く、ドライヤーで乾かすの忘れられていました。

お客さんも2人待っていたので、再び店内に戻る勇気も無く、
頭が濡れたまま、寒空のなか自転車に乗って帰宅しました。

店主はちょっと認知症気味かもしれませんが、
気に入っている床屋なので今更変える訳にもいきません。
でも、跡継ぎもいなようですし、数年後には無くなっているのだろうな。



近所で個人で経営している中華料理店があるのですが、そこもあと何年持つのか。
息子さんはいるけれど、お店でコーラばかり飲んでいて働いている様子は無いし。
美味しいお店なので無くなってしまうのは残念です。
飲食店も、チェーン店系のお店ばかりになって行くのでしょう。



今年2020年は、女性の2人に1人が50歳以上になるそうです。
若い人がいない社会は活気が無いように感じますが、
これも時代の流れ。仕方の無い事なのでしょう。

私ももうすぐ50歳。
先日歩きすぎたせいか、左足のくるぶから甲にかけての痛みが取れません。
若い頃はこんなことは無かったのに。

category: 無職・仕事

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カメラが故障しました  

3週間ほど前、カメラが故障しました。
故障と言っても動かなくなった訳では無く、
写した画像上の同じところに黒い豆粒ぐらいの点が写るようになったのです。
明るいところで撮影した写真では目立ちませんが、逆光で写すと目立ちます。
気になるので修理に出しました。
そのカメラが、昨日帰ってきました。

その間は古いカメラを使っていたのですが、画質があまり良く無くて、
今使っているカメラが帰ってきて嬉しかったです。



戻って来たカメラを見て、思い出したことがありました。
私は無職になる前は機械メーカーの生産技術の仕事をしていました。
入社2年目に、ストレスから十二指腸潰瘍を患い、入院・休職をしました。
また、生産技術の仕事に興味がもてず、他の部署に異動したいと思っていました。

そんなことを当時の上司である課長に相談したら、課長は直ぐに動いてくれ、
彼の昔の上司が、製品の修理を請け負っている子会社の社長になっていて
伝手があるので、そこで私が働けないか掛け合ってくれると。
ものづくりは嫌いでは無いではないので、是非お願いしますと言いました。

1ヵ月後、課長と一緒に修理を請け負う子会社へ行き、
製品を修理している職場を見学した後、社長と面接をしました。
どんなことを話したのかは覚えていません。
ただ、何が何でもそこで働きたいとは思えませんでした。
お互い、あまり良い感触でなかったことは覚えています。

面接から数週間後、課長から呼ばれ面接結果を聞かされました。
今回の件は見送りだと。
理由は、まだ若いから、ということだったような気がします。
修理センターで働く人たちは、一定の技術経験を積んだベテランの人が多かったです。
だから経験の殆ど無い私にはまだ早いだろうと。
また、修理部門は毎日ルーティン作業であり単調な世界です。
入社2年目で、これからまだ色々な経験を積めるであろう私には向かないだろうと。
もう少し今の職場で頑張って様子を見た方が良いとのことでした。


異動の願いは叶いませんでした。
しかし、入社2年目の若造である私の相談に耳を傾けてくれて、
実際に直ぐに行動に移してくれた課長にはとても感謝したこと覚えています。
彼は上の人にも下の人にも気配りができ、仕事もできる人だったので
部長・執行役員ととんとん拍子に出世し、最終的には取締役にまで昇りつめました。

出来る人と言うのは、後天的な努力よりも、
先天的な才能(つまり生まれ持った才能)の要素の方が大きいような気がします。
どんなにがんばっても敵わない人が世の中には大勢居る、ということを
この会社に勤めていた時に知りました。


その後、16年間ずっと生産技術部で(嫌々)働いていたのですが、
その間にも営業、品質管理、購買といった部署への異動希望を出しました。
しかし叶うことがありませんでした。
もしも社内での異動が叶っていたのなら、会社員をまだ続けていたかもしれません。
でも、幸せだったかどうかは分かりません。


修理から帰ってきたカメラを眺めていたら、そんな過去を思い出しました。

category: 無職・仕事

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理想の仕事とは  

コメントを頂いていたkotaさんが
鉄道模型のレンタルレイアウトのお店を8/10(土)にオープンされたようなので紹介させて頂きます。
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鉄道好きが高じて田端でこのような店をはじめました。
ご興味ありましたらお越しください。
ほぼ国鉄時代のジオラマ
鉄道のまち田端にある鉄道模型(Nゲージ)レンタルレイアウト店です。
----------------------------------------
このお店を開店させるに至るまで、
私には分からない様々な苦労があったと思いますが、
kotaさんは鉄道ファンのようですし、好きなことをして収入を得るというのは
本当に素晴らしいことだと思います。
オープンおめでとうございます。



理想の仕事とは何か?について少し考えてみました。

好きなことをして生活費を稼ぐことができれば、これほどいい事はないでしょう。
野球が好きだから野球選手、将棋が好きだから将棋棋士
絵が好きだから画家、演劇が好きだから役者等々

しかし、自分の仕事人生を賭けられるような大好きな事に出会えるのか?
そして、その思いを大人になるまで変わることなく持ち続けることができるのか?


物心が付いた時から、親や先生といった大人たちから、
沢山勉強して、良い大学へ行き、ステータスのある職種や
一流企業に勤めることが幸せへの近道であると洗脳されてしまうと、
自分の好きなことを仕事にすることへの思いは薄れていきます。

もしかしたら、小さい頃から勉強漬けで、
好きなことを見つける時間すらも奪われているのかもしれません。

でも本当は、好きなことをして毎日生きていくのが一番良いのですよね。
仮に社会的(社会的地位や金銭的)には成功しなくても、
結果的には、自分が納得できる人生を送ることになるのではないか。



私は今は無職なので時間には余裕があります。
どんなことを仕事にししてもいいのですが、「好きなこと」と「収入を得る」ことが繋がりません。

これを繋げるためには死ぬほど考え抜かないとならないような気がします。
アイディア、構想、資金繰り・・・
とても大変なことです。

でも、好きなことをしてそれで対価を得られたら
どんなに充実した時間を送れるのだろうか。

だから国鉄時代の鉄道が好きだというkataさんが、
その思いを生かして鉄道模型のレンタルレイアウトのお店をオープンさせたというのは
とても羨ましい事だと思いました。

これからもがんばって下さい。
陰ながら応援しています。

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働いていた時と無職の今、どっちがマシですか? その3  

「働いていた時と無職の今、どっちがマシですか?その1 その2」について
コメントを頂き、返信が長くなりましたのでこちらに書きました。

littleXさん
コメントありがとうございます。
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私の場合、会社や仕事よりも人間関係が苦痛で仕方ない
社会的な地位や仕事のやりがいなんかどうでもいい
とにかく今の状況から抜け出したい
自由がうらやましい
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人間関係でお悩みでしたか。
先にも書きましたように、私は偶々会社員時代に人間関係で悩むことはありませんでした。
これは本当に運が良かったとしか言えません。

仕事以外の人間関係はトラブルばかりです。
つい最近も、中学時代の恩師と喧嘩になりました。
彼とは2度と会うことはないでしょう。
私は自己主張が強いので、みんなから嫌われ、彼らは私の前から去って行きます。
そしてそれで良いと思っています。

会社時代の同僚や上司は、不思議とおおらかな人が多かったです。
そして意地悪をするような人も皆無でした。
学生時代の友人の仕事の話を聞くと、人間関係で悩んでいる人が多かったです。
私が特に人間関係を構築するのが上手いかというとそれは絶対に無い。
となると、これは巡り合わせが良かっただけと言えます。

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人生なめているだけかもしれませんが
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私は会社時代は自分なりに一生懸命仕事をしていましたが
報われることはありませんでした。

一方、仕事を辞め、再就職先が見つからず何気なく始めた、
世間的にはなめていると思われるトレーダーでは
それなりに結果を出すことができました。

人生なめているぐらいの方が丁度良いのかもしれません。

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もし会社を辞めても、後悔するかもわからない
いろいろ考えながら生きて行くしかないですね
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仕事で悩んでいた時、周囲の人から良く言われたのが、
「一度きりの人生、悔いの無いように好きなことをして」
という無責任な言葉でした。

この言葉を投げかけられると、益々仕事を辞められないと悩みました。
一度きりの人生、悔いが無いようにと思えば思う程慎重になり、
仕事を辞めることを躊躇しました。
考えれば考える程、思考停止に陥って何もできなくなりました。

結局は何か大きな外圧が働かないと、仕事は辞められないのかもしれません。
私の場合、それが鬱での休職、復職の失敗でした。


ムーンさん
コメントありがとうございます。

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毎日暇ですね。僕はテレビはあまり見ないので寝ているか、
自分のブログを眺めているか更新しているかくらいです。
ギターは国家機関での対応が終われば再開します。
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世の中には、暇を楽しんでいる人がいる一方、
私は暇を持て余し苦しんでいる。
この違いは何であろうかと考えたことがあります。

それは、私特有の完璧主義に因るものではないかと考えました。

人生に与えられた時間とういうのは限られています。
その時間を如何に効率良く使うか?
それが学生時代、会社員時代に常に考えるべきことでした。

しかし、無職の今はありあまる時間があるのに、
何一つ効率良く使っていない。時間を無駄遣いしている。
完璧主義者の私にとって、そのことが耐え難いのです。

ちなみにトレードをきっぱり辞めたのも、
今までのように勝てなくなった自分に耐えられなくなったという
完璧主義に因るものだと思っています。

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