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夢職ひきこもりの日々

40歳で鬱で職を失いました。2014年1月~2018年10月までトレードで生活費を稼いでいましたが、稼げなくなり完全に夢職なりました。酒場巡りをライフワークとするアル中予備軍。無業期間が長くなりすぎ再就職はあきらめました。

近況  

今日で9月も終わりです。
毎日涼しくて快適で、今、室温は23℃です。

この9月はどこへも行きませんでした。
9月に限らず夏もどこへも行っていませんし、
翌々考えると今年は旅行に全く行っていません。
自宅近くを散策したぐらいです。

ここ何年か、毎年大学時代の友人と2人で3泊4日の旅行へ行っていて、
今年はもう一人加り、秋に3人で北海道に旅行へ行くことになっていましたが、
先日メールが来て中止になりました。

旅行へ行くのは大丈夫かもしれませんが、
旅行中の食事は居酒屋などの飲食店で食べることになり
お酒も入って長時間滞在することになりそうなので、
コロナが収まるまで延期にしようという話になりました。
もしかしたら、この先旅行には行けないかもしれません。



家族以外の人ともこの半年は誰とも会っていません。
(証券会社の担当者との顔合わせは除く)
自分でも意外なのですが、人と会わなくても大丈夫なものです。

無職になってから、中学時代の先生と久しぶりに再会して懇意にしていましたが、
毎月のように会おう会おうと言われて、
会っても毎回のように先生の昔の思い出話を一方的にされ、
そんな状態に辟易して、忙しいので会えないと避けていたら、
「お前は俺に会えないほど忙しいのか!」と激怒されました。

私もカチンときて、そんなに頻繁には会いたくはないと本当のことを言ったら、
「お前のその態度は何だ、人は一人で生きていけないのだぞ、
 二度とお前とは会わない、さようなら」とメールが帰ってきました。

「人は一人で生きていけない」確かにそうだよなと思い、
いささか寂しい気持ちになったものの、
先生からのしつこい誘いが無くなったことに安堵しました。


こうして半年間、家族以外の誰とも会わないことが、
私にとってはそれほど苦しくないことを考えると、
私は一人で生きていくことが可能ではないか?
もしかしたら、将来山奥にこもって仙人のような生活ができるのではないか?
と思ったりしています。
(会話をしようと思えばいつでもできる家族の存在は大きいと思いますが)



そんな訳でして、今年も残すところ3ヵ月。
旅行の予定も無ければ、誰とも会う予定も無い。
更に言えば、都内に一人で飲みに行くこともできなさそうで(三密によるコロナが怖い)
この先も詰まらない日々を淡々とこなし
今年もあっと言う間に終わってしまいそうな予感がします。
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category: 夢職の日々202009

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自分にふさわしい場所  

鬱で仕事を辞めたのが2012年11月。
その後は、精神病院に入院するなどしばらく療養して
2014年1月からトレードをはじめました。

2014年はアベノミクス相場も重なって、会社員の時代年収を(少し)超える利益が出ました。
こんな幸運は長くは続かないとは分かっていたものの、
当面の生活費は確保できる見通しが立ち安堵したことを覚えています。

翌年の2015年1月
職を失って自由となったと共に、幾ばくかのお金を得ることができたので
一人旅に行くことにしました。
岡山、大阪、京都と巡り、関西に住む友人とも会いました。

会社員時代は時間に追われ、給与は生活費にあてていたため
(小遣いの2万円を差し引いて、全額妻に渡していた)
一人で旅行などには行けませんでした。

前年、株で稼げたことの嬉しさとともに、
自分は株で稼ぐことのできる選ばれた人間であるという意識もあり、
人生で始めて新幹線のグリーン車に乗りました。
とても心地良かったことを覚えています。

翌年もグリーン車に乗りました。しかし何となく居心地が悪い。
周りの乗客を見てみると、スーツを来たビジネスマンや外国人観光客。
仕事で成功した人たちが多かったような気がします。
それに対して、自分は株でお金を得た成金。
なんとなく恥ずかしさを感じ、自分が場違いな空間にいるように感じました。
翌年以降、新幹線に乗るときは普通車にしました。
そこが、自分にふさわしい場所に思えました。


貧困旅行記 つげ義春著より
氏が友人に「つげさん向きの温泉がありましたよ」と勧められた上州湯宿温泉へ行った時のこと
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路地の奥まったところに宿をとると、二階に廊下の板が一枚はがれ、
長い穴がぽっかりあいたままだった。
階下が見え空中を歩いているようで不安だった。
通された部屋は畳のワラがはみだし傾斜しているので、横になると隅の方へころげていきそうであった。
隣室との境の襖もぼろぼろに破れている。
ぴったり閉じないので覗いてみると、数珠の音が聞こえる。

呪文のようなお経のようなかすかな声もきこえる。だが人はいない。
隣の方に自炊道具がころがっていて七輪がある。
その横に黒い影となってこんもりとボロ布の山がある。
それがかすかに動いている。よく見るとどうやら人のようだ。
ボロ布のかたまりと思ったのは老婆のようであった。
線香の匂いもただよってくる。
宿屋でお経と線香の匂いに遭遇するとは予期せぬ出来事だ。
つまらぬところ来てしまったと後悔した。
もう少しましな宿はなかったのか。いやどこも同じようだった。

夜、床の中で、ここがどうしてぼく向きなのかまた考えてみるが解らない。
隣の部屋からはいつまでもお経の声がうめくように流れてくる。
「やりきれんなァ」と気持ちが滅入る。
夜半、路地のほうから、「火の用。カッチ、カッチ」と
拍子木の音が淋しそうにきこえ、思わず寒々とし、寂寥とした気持ちが胸に迫り、
人生の涯(はて)、旅路の涯に来たような絶望的な気分におちこんでしまった。

これは14年前の印象だったが、今度また湯宿に来てしまった。
これが二度目ではない。もう何度も来ているのだ。
何を好んでといわれても答えようがない。ふと思い出すと来てしまうのだ。
その都度寂寥とした思いになるわけではないが、妙に馴染めるのだ。
みすぼらしくて侘しげな部屋にいる自分が何故かふさわしいように思え、
自分は「ここでこうしていたのかもしれない」というような、そんな気分になるのだ
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私が幼少期の頃、親戚のアパートに間借りしていました。
八畳、四畳半、台所といった間取りで、両親と妹の4人で住んでいました。
食べるのに困るほど貧乏ではありませんでしたが、裕福でもありませんでした。

私は日曜日の午後に塾に通っていました。
塾が終わると友人とファーストキッチンに行くのがいつものことでした。
友人は、ハンバーガーにポテト、ドリンクを注文していましたが、
私はお金が無いのでポテトのSサイズしか注文できませんでした。

ポテトのSサイズだけではお腹が満たされず、
お金を沢山持っている友人を羨ましく思いました。



今、私が考えていることは、
自分のふさわしい場所、生き方はどんなものかということです。

私の幼少期時代の、貧しく少し飢えている状態というのは
なかなか良いもののように思えます。
今でもしっくりいく、馴染める感じです。
自分が目指すのは、物質的に豊かになることではないような気がするのですが、
具体的な方向は見えていません。

category: 思索

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依存症について  

ブログの更新が滞りがちです。

私がブログの更新が面倒になるときは、体調が悪いか、
精神的に不調を来している時なのですが、今は至って健全です。
涼しくて夜もよく眠れます。
楽しいことはありませんが、嫌なこともありません。

お酒はほどほどに飲んでいます。
お酒の飲み方に関してはちょっとした変化があって、
これまでは寝る直前まで飲み続けていましたが、
適当に切り上げることができるようになりました。

目一杯飲むと、翌日お酒が残ることが多く、
不快なので止めるようになりました。


先週はほとんどの時間を本を読んで過ごしました。
本を読んでいるか、昼寝しているか、夜お酒を飲んでいるか。

依存症に関する本を多く読んでいます。
ギャンブル、アルコール、買い物、恋愛・・・なかなか興味深いです。


ギャンブル依存症 田辺等 著 より
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ギャンブルにはまった状況、心理的な背景をまとめてみます
・日常生活での充足感、充実感に欠けていた
・自分への肯定感がもてない、他者と比較してダメな感覚があった
・仕事に取り組んでいる自分が本当の自分ではない気がする
・何を目標として生きるべきか見失っていた
・空虚、空白、憂うつな気分が続いた
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私がやっていたトレードはギャンブルでした。
生活費を稼ぐ目的でしたが、仕事と思ったことは一度もありませんでした。

トレードで生活費を稼ぐことになった当時の心境を思い出してみると、
鬱で仕事を失って惨めな気持ちでした。
40歳といえば、みんなまだまだ現役で働いている世代です。
自己肯定感が持てず、他人と比較してダメな自分を十分自覚していました。
トレードでお金を稼ぐことによって、辛うじて自尊心を保っていたのだと思います。
私には「お金」しかありませんでした。
いつの頃からがそれが醜いことだと思い、トレーダー以外の友人には
トレードをしていることは隠すようになりました。


16年間勤めていた会社では、毎日決まった時間に家を出て、
少なくとも8時間は仕事をしていました。
学生時代から考えると34年間です。

それが職を失ったとたん、そういった習慣が突然無くなります。
目標を失うと同時に、何もすることがない空虚感を感じました。

しかし、トレードを始めることで、お金を稼ぐという目的を得ると同時に
日中は毎日パソコンに向かって取り引きをするという習慣が再度生じ、
充実した日々が送れるようになりました。

私にとってトレードというギャンブルには大きなメリットがあったことが
この本を読んで理解できました。



スポーツ選手には、しばしばスポーツで培がれた勝ち負けのこだわり、執着があり
ギャンブルにはまりやすい傾向があるそうです。
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スポーツで体験していた達成感、満足感を、ギャンブルでの勝利に置き換え、
すり替えていったようです。手っ取り早く、『勝利の達成の類似品』を求めたのです。
ギャンブルに勝つことが『かりそめの自己実現』を果たしたのです。
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何にでもそうですが、達成感を得るには大変な苦労を要します。
仕事で達成感を得るためには、多くの工程を経たり、時間を要したり、
苦労が多ければ多いほど達成感は大きくなります。

スポーツも勝利を得るためには、人並知れず練習をして
苦しい思いをして、その末に勝利を勝ち取ることで達成感が得られます。

しかしギャンブルでは、この勝利は偶然に左右されるため
さほど努力をすることなく得ることが可能です。
一度そういった勝利を味わうと、やめることができなくなるのです。


アルコールに関しても同じことが言えます。
例えば私は良い本を読むと楽しい気持ちになり、快の感情が得られます。
しかし、本を読むということは、それなりの時間をかけて活字を追うので時間がかかります。

散策や旅行に行くと、やはり楽しい気持ちになります。
しかし、計画を立てたり、長い時間をかけて乗り物で移動をしたり、
長時間歩いたり、時には坂道をのぼったりとそれなりに大変なことも多いです。
そうした苦労の末、快の感情を得られるのです。

一方アルコールはさほど苦労なく快の感情を得ることができます。
お酒を買ってきて、それを摂取するだけで気分が良くなります。
本を読んだり散策や旅行へ行くのよりも、はるかに簡単で楽です。



ギャンブル依存、アルコール依存をはじめとする依存症というのは、
手っ取り早く、苦労することなく快の感情を得ることだと思いました。
だから、みんなやめられなくなるのです。

category: 未分類

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欲望について  


今日は涼しい1日でした。
暑さ寒さも彼岸までと言われていますが、
これからは日々涼しくなっていくのでしょう。
暑さに弱い私にとっては、ありがたいことです。
4連休は毎度のことながら、どこへも行かないで終わりました。
図書館へ行ったり、買い物に行ったり、ファミレスにご飯を食べに行ったぐらいです。



今月49歳になりました。
48歳の時に、あと20年生きれれば良いと漠然と考えました。
だから私に残された時間はあと19年です。
それより早く死ぬかもしれませんが、それは仕方が無いことです。
(自分で決められるいことではありませんので)
それより長く生きられれば、残りの人生はおまけの時間と考えます。



私が残された人生で目指していることは、ストレスなく生きることです。
最近自分を苦しめていることは、欲望だと感じています。
そんなこともあり、欲望とは何かを知りたくなって、
図書館で本を借りてきて連休中に読んでいました。



欲望について ウィリアム・B・アーヴィァイン著
この本には、欲望とはどのようにして起きるのか、なぜ起きるのか、
私たちの生活にどんな影響をあたえるのか、抑制するにはどうしたらよいのか
などが書かれています。
抑制については、宗教や哲学の思想について平易に書かれていて
私でもよく理解することができました。



世の多くの人は、財産をもつのは喜ばしいことと考える。
だた、ストア派の考えでは、財産は心の平静さを妨げることがある。
セネカによれば、金を持たない悲しみは、金を失うことから生じる悲しみより少ない。
一般論として、金が少なければ少ないほど、感じる不安も少なくなる。
したがって、人々が目標とする財産の規模は、「貧窮に落ちはしないものの、
貧窮にほど遠くはない金額」であると、セネカは述べている。


大麦の粥か大麦のパンがほとかけ、それに水というのは、
あまり楽しい食事とはいえないが、人間にもっと強烈な楽しみを与えるのは、
そんなものからでも楽しみを見いだせる能力なのである。
セネカ


私は残りの人生を考えたとき、心の平静を大切にしたいと思っていますが、
現状は欲が勝っているような感じます。
生きる中で心の平静が常に優先されるという考えは、
漫画家のつげ義春さんが思い出されます。
私が彼に惹かれるのは、そんなことが理由だと思います。

category: 思索

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中学時代の同級生の話 その9  


彼女に別れを告げられたKは、それから程なくして、
引っ越しのアルバイトを辞め、正社員の職を探し始めました。
これまで自由を謳歌していたKが、定職に就くことなど考えられませんでしたが、
彼女との出来事が余程堪えたのだと思います。

Kはハローワークで見つけた施工管理会社への就職が決まりました。
バブルが崩壊しかけた頃でした。
彼は何の職歴も資格もない自分を雇ってくれたその会社に
とても感謝していました。



その施工管理会社での仕事は、
商業施設の店舗やトイレ改装などにおいて、責任者としての現場で立ち合うことでした。
改装工事は、店舗が閉店した夜間に行われることが多く、
Kとはなかなか時間が会わなくなり、会う機会も減ってしまいました。

更に彼は、その会社で資格を取りたいと言って資格学校に通うようになりました。
資格学校は勤務終了後の夜だったので、益々会うことはなくなりました。

その勉強の甲斐があって、彼は2級建築施工管理技士、
1級建築施工管理技士の資格を取得した後、
二級建築士、最終的には一級建築士の資格まで取得しました。



一級建築士の資格の試験は、合格率が8~12%程度だそうです。
司法試験、司法書士、弁理士といった難関国家資格の合格率が
10%未満であることを考えると、それに匹敵する難易度だと言えます。

通常、一級建築士の受験資格は、大学(主に建築学科)において、指定科目を修めて卒業し、
卒業後2年以上の建築実務の経験を積んだ後に与えられます。
しかし高卒でも、二級建築士として4年以上の建築実務の経験を積めば受験資格が得られます。
Kは高卒でしたが、見事に一建築士の資格を取得しました。



彼女と別れたKは、私の知る限りでは、それ以降女性と交際することはなかったと思います。
彼に好意を持った女性がいることは知っていましたが、
余程別れた彼女が好きだったか、恋愛に傷つくことが怖くなったのか、
恋愛にまで発展することはありませんでした。

Kはそこそこ容姿で、きちんと仕事をして安定した収入があり、
結婚していないのが不思議に思えましたが、
女性と付き合うことを避けているように思えました。

恋愛だけでなく、友人との付き合いでも、人と真剣に付き合う合うということは、
お互い傷つき傷つけあうことは避けて通れないと思います。
それが嫌なら、一人で生きていくほかありません。
気兼ねなく一人で生きていくのも、また良いものだと思います。
このあたりは良い悪いでは無く、好みの問題だとも言えます。



Kと会ったのは、2~3年前に五反田(品川区)の居酒屋で二人で飲んだが最後です。
充実した仕事人生を送っているようで、無職の私は彼を羨ましく思いました。

でも何となく、昔のように話は合いませんでした。
学生時代は同じ世界に生きていても、月日が経てばお互い生きる世界も変わります。
それに伴って、共通の話題や興味があることも変わってしまいます。

私は友達というのは、時代や環境によって変わるものだと思っています。
だから私にとって、ずっと友人関係を保ち続けるのは難しいことです。
Kともまた、忘れた頃に会えたら良いなと思っています。



Kの話はこれで終わりです。
私の学生時代を振り返りながら書いてみました。
続いて、絶縁したFのことも書こうと思います。


その10 に続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その8  

Kが失恋した話を書いたので、少しまた横道に逸れます。


私が23歳の時、パン屋でアルバイトをしていて、
そこで知り合った女の子と付き合うことになりました。
夏になり、一緒に花火大会を見に行くことになって、
とある駅で待ち合わせをしました。

しかし、いつまで経っても彼女は現れません。
彼女の家に電話するも、誰も電話には出ません。
楽しみにしていた花火大会でしたが一人で見る気にもなれず、
家に帰ろうとも思いましたが、一人になるのが怖くて、
大学の研究室に行きました。

彼女が日程を勘違いしていたのかもしれない、うっかりしたいのかもしれない、
と思いたかった気持ち半分と、
彼女との関係が終わったかもしれないという気持ちが半々でした。

後日、彼女と連絡が付き、別れ話を切り出されました。
彼女と付き合って3か月目のことでした。
毎度のことながら、別れを告げられるのはいつも3か月が経過した頃でした。

私は女性を振ったことは1度も無く、
いつも振られてばかりだったので分からないのですが、
3か月ぐらいで相手のことを見極められるのでしょうか?

失恋の辛さというのは、相手から評価されないということです。
「一緒にいるに足る人物ではない」と、
全人格を否定されたようで、とても傷つき落ち込みました。
他者から選ばれない、評価されないということは、本当に苦しいことでした。



恋愛だけでなく、人が社会に出て生きていくということは
常に他者からの評価が付きまといます。

会社勤めをしていた時、
自分と同じような成果を上げている同僚がいたとして、
彼の方の査定が良かったり、昇進が早かったりすると、
自分が評価されていないようで寂しい気持ちになりました。

失業して、再就職活動をしていた時、
畑違いの職は書類選考で落とされても諦めが付きましたが、
これまでのキャリアを生かせそうな職でも、面接の機会すら与えられず、
書類選考で落とされたのには堪えました。
なぜ、自分が落とされたのか腑に落ちませんでした。

再就職先が見つからず、日銭を稼ぐため、
コンビニのアルバイトにネットで応募しましたが、
その後何の連絡がなかったのには唖然としました。

40歳を過ぎた無職は、ここまで風当たりが強いのかと。
そして世の中から自分が全く評価されず、
(仕事では)役に立たない人間であるという烙印をおされたようで、
生きていることが辛くなりました。



社会生活を送るということは、多くの人とのかかわりを持ち、
その中では否応となしに常に評価がつきまといます。
それは私にとっては苦しいことでした。
評価されない、自分が選ばれないことで傷つくのが怖ったのだと思います。
(このあたりは、私が完璧主義者だということも関連していると思います)

今は無職で社会とのかかわりも無く、人との関係もかなり断ち切っているので
生きるのが楽になりました。
一方で、私は他者からの評価を恐れるがあまりに、
色々な事を避け、狭い世界の中で生きているという実感があります。
それでは豊かな人生を歩むことはできないとも感じています。

Kは失恋をバネにして、その後、正社員の職を得て更に飛躍していきます。
だから一概に、他人からの評価が付きまとう世界が悪いとも思えません。

その9 に続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その7  

今夜は久し振りにお酒を飲んでしまったので
あまり書けませんでした。


大学3年になってからは、酒とギャンブル漬けの生活を改め、
きちんと大学に通うになりました。
時々麻雀もしましたが、授業が終わってから夜までにして、
家に帰って寝るようになりました。
平凡な日常に戻ったためか、この頃の記憶はほどんどあまりありません。
詰まら無かったです。

女っ気も全く無し。
学校と自宅を往復する毎日。
週2日の家庭教師のアルバイトは続けていました。

Nはその後、運転免許証を取得するためしばらくの間、
岐阜の実家に帰っていたので、彼とも会わなくなりました。
そのため夜遊びをすることも無くなり、健全な生活に戻りました。


Kは相変わらずフリータをしていて、引っ越しやビール配達のアルバイトをしていました。
体を動かす仕事をして、仕事が終わるとビールを飲んで、
時々好きなバンドのライブやコンサートに行くといった生活で、
何の不満もなさそうでした。

一方、カメラマンの見習いとして働いてたFは、
職場で年配社員に説教ばかりされていて、不満が多かったようです。



ある時、Kから飲みに誘われ、私の家でK,Fとの3人で飲んでいると、
Kは深刻な顔をして、彼女と別れたという話を聞かされました。

Kの彼女は短大を卒業後にOLとして働き始め、仕事帰りに通っていた
英会話スクールの外国人講師に惹かれ、
Kに別れ話を切り出したそうです。

またKがフリーターでだったこともあって、
結婚を考えると将来が不安だとも言われたと言っていました。
Kの落ち込みは激しく、かける言葉も見つかりませんでした。



それからどのくらい経ったか覚えていませんが、
Kは引っ越しのアルバイトを辞め、定職に就くことになりました。
これまで自由を謳歌していたKが、定職に就くことなど考えられませんでしたが、
彼女との出来事が余程堪えたのだと思います。

彼はハローワークに通い、そこで見つけた施工管理会社への就職が決まりました。
高卒で何の職歴も資格もない自分を雇ってくれたその会社に
彼はとても感謝していました。


その8 に続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その6  


20歳当時のK、Fのことを書いたので、私のことも少し書いておきます。

大学2年に入ってからの私の生活はかなり荒れていました。
引っ越しのアルバイトは辞め、家庭教師のアルバイトと掛け持ちで、
ハンバーガーショップでのアルバイトを新たに始めました。
そこで出会ったNと意気投合して、毎日よのうに遊んでいました。

Nは私より3歳年下で、出会った当時彼は17歳でした。
岐阜県出身で、高校を中退して東京に働きに出てきました。
高校を中退した理由は、朝起きることができず学校に行けなかったからだそうです。

Nは東京に住んでいる叔父と同居していました。
当初は喫茶店で働いていましたが、喫茶店を辞めて
私と同じハンバーガーショップでアルバイトを始めました。



Nと馬があったのは、彼もギャンブルとお酒が好きだったからです。
(中学時代の友人Kと同じです)

ハンバーガーショップのアルバイトは23時までで、その後は
彼と2人で飲みに行くか、バイトのメンバーと麻雀に行くかでした。
バイト先の店長も麻雀が好きで、時には店長を交えて麻雀をしました。

また、社員がいない時は、バイトが終わった後コンビニにお酒を買いに行き、
店内の客席でおいちょかぶ大会が開帳され、
深夜の客のいない店内に「クッピーン」「シッピーン」といった声が響き渡っていました。
花札なんかもやった記憶があります。

今思うと、あのバイトは店長を始め、みんなギャンブル好きで狂っていました。
例えギャンブルに興味が無くても、みんな巻き込まれていたように思います。
新しいバイトが入ってきて、麻雀やおいちょかぶを知らないというと、
直ぐに教育してメンバーに育て上げていました。
流石に女の子たちは麻雀はしませんでしたが、おいちょかぶや花札は普通にやっていました。
(ルールが簡単なので、すぐに覚えられたこともある)
当時はインターネットも普及していおらず、娯楽も少なかったからかもしれませんが
みんなギャンブルにのめり込んでいました。

あのアルバイトは、私の経験したバイトので一番楽しかったですが、
店長をはじめとするメンバーや、職場環境はかなり特殊だったと思います。
あんなハンバーガーショップは無いと思われます。



通っていた大学は週6日ありました。
家庭教師のアルバイトは週2日、ハンバーガーショップでのアルバイトが週3日
ハンバーガーショップのアルバイトは授業が終わて、夕方頃から23時まで働いていました。
Nはフリーターなのでほぼ毎日14時から23時まで働いていており、
私が働くときは、だいたい閉店まで一緒でした。
閉店後は、彼と一緒に夕飯を食べに行くか、アルバイトのメンバーを誘って麻雀にいくかでした。
真っ直ぐ家に帰ることはまずありませんでした。

夕飯は、店の近くにつけ麺大王という中華料理屋があり、
そこでラーメン、麻婆豆腐定食、天津丼を良く食べました。
それからコンビニでお酒を買って、公園で飲みました。
後にNは叔父さんの家を出て、一人暮らしするようになったので、
彼の家で飲むこともありました。


麻雀は場代が安い蒲田(大田区)まで電車に乗って行きました。
場代は学生で1時間200円でした。
バイトが終わってからなので、終電近くで蒲田まで行って、
始発が動き始める頃に解散しました。

私は家に帰ることなく、そのまま大学へ行き、教室の一番後ろの席でいつも寝ていました。
大学にはシャワーがあったので、空き時間にシャワーを浴び、
授業が終わるとそのままアルバイトへ行きました。
時々家に帰りましたが、着替えるだけでした。

それに加えて、競輪も大好きだったので、
川崎、花月園競輪が開催されるときは3日間開催のうち1日は行っていました。
記念競輪の時は2日行くこともありました。

このように、大学2年時は毎日忙しく、
大学にいるか(寝て、シャワーを浴びる場所)、バイトをしているか、
麻雀などのギャンブルをしているか、競輪場にいるか、お酒を飲んでいるか
というような荒れた生活を送り続け、勉強は全くしなかったので
成績はガタ落ちになり留年の危機に陥りました。

流石の私もこのままではまずいと思い、大学3年になるのを機に、
断腸の思いでハンバーガーショップのアルバイトを辞めることにしました。
とても残念でしたが、背に腹は代えられませんでした。



バイトを辞めてからもNとの交流は続いて、彼の岐阜にある実家に遊びに行ったりもしました。
彼の両親もギャンブル好きで、一緒に麻雀をしたり、
豊橋競輪場の開設記念に連れて行ってもらったり、
とても良い思い出になっています。

Nとは酒を飲みながらこれからのお互いの人生について良く語り合いました。
Nは高校中退で、学歴は中卒だったので、
「自分は乞食になるか大金持ちになるかのどちらかの道しかない」
といったことを良く言っていました。

その後彼は、パチンコ屋の店員、歌舞伎町でホスト、芸能事務所のマネージャーなどを経て、
最終的には芸能プロダクションを興しました。
私が就職してしばらく経った2000年頃には、渋谷で家賃50万円のマンションに住んでいて、
私とは別世界に行ってしまったようで、とても寂しい気持ちになりました。

彼が会社を興したばかりの時は経理の明るい人間がおらず、
私が数字に得意だったこともあって、一緒に仕事をしようと誘われましたが、
右も左も分からない芸能関係の仕事に人生を捧げる勇気も無く断りました。


私が30歳ぐらいになるまでは、彼と年賀状の交換をしたりと交流は続いていましたが、
今はどこで何をしているのか全く分かりません。
もう一度会ってみたい友達の一人です。


その7に つづく

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その5  


3人では家で飲むことが多く、冬になると鍋やおでんをしました。
男3人でスーパーに野菜や肉、酒を買いに行き、
実家から電気グリル鍋を借りてきて鍋を作りました。

当時、冬季節限定のビールの出始めた頃で、
鍋の時はみんなで「サッポロの冬物語」を飲んだことを覚えています。

3人ともビールを好んで飲みました。
Kはキリンが好きで、ラガーや一番搾りを飲んでいました。
Fはアサヒのドライが好きでした。
Kの兄はサッポロの黒ラベル。

私はアサヒのZが好きでした。
あとは、ハイネケンやクアーズといった外国産ビールを飲んでいました。
当時は外国産ビールは350ml缶が200円ぐらいで売っていて
国産ビールよりも安かった記憶があります。
発泡酒は無かった時代です。



20歳ぐらいの時の冬だった思います。
いつものように鍋をしようという話になった時、
Kが連れてきたい人がいると言いました。

当日、Kが連れてきたのは、とても可愛い女の子でした。
付き合い始めた彼女だと紹介されました。
高校時代の同級生で、卒業後のクラス会で再会して、
付き合いが始まったそうです。

私はというと、付き合った女性は何人かいましたが、
3か月ほどで女性の方からことごとく振られて上手く行きませんでした。
結婚願望は昔から強かったのですが、
私は恋愛には向かなさそうなので、この先ずっと一人で生きていくのだろうなと
ぼんやりと考えていたところでした。

そんな中で、Kがとてもかわいい彼女を連れてきたので、
嫉妬すると同時に、激しい劣等感に襲われたことを覚えています。



3人が高校を卒業して2年が経った1992年4月
Kは2浪するも夢が叶わず、進学を諦めることになりました。
浪人時代も続けていた引っ越しのアルバイトを本業とし、
「フリーター」として生計を立てることになりました。

1990年代前半はまだバブル景気中で、仕事はいくらでもありました。
リクルート社が発行する求人誌「FromA」はバブル景気を受け、
求人広告増加に対応させるため、1989年春から毎週金曜日発売となる「From A to Z」
が創刊され、週2回の発行となりました。
(Wikipediaより)

また、1980年代後半から「フリーター」という言葉が生まれ、
アルバイトで生計を立てつつ、会社に縛られず自由な生き方をするといった
新しい生活スタイルも確立されつつありました。

Kには2歳上の兄がいましたが、彼もコンビニエンスストアの深夜のアルバイトと
ビル清掃のアルバイトをしつつ、生活していました。
当時は沢山仕事があり、時給もそれなりに良かったように思います。



一方、Fは映像関係の専門学校を卒業後、撮影スタジオの職を得ました。
スタジオではCM撮影などをするカメラマンの見習いとして働いていたようです。
入社したてのころは、年配のスタッフに小言を言われたり説教をされることを嘆いていました。

カメラ、ライトなどの重い機材を扱うことも多く、重労働だったようですが、
引っ越しのアルバイトで体を鍛えていたので、
何とかついていけると言っていました。

彼は2年ほどそのスタジオで下積みを積んだ後、大きな会社に転職し、
今はフリーのカメラマンになっているようです。


その6 につづく

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その4  


家庭教師のアルバイトを始めてからは
引っ越しのアルバイトの回数も減っていき、
いつの頃からか全く行かなくなってしまいました。
K、Fの2人は、その後もそのバイトを続けているようでした。

一緒に仕事をすることも無くなったので、2人とは縁が切れても良さそうでしたが、
その後も付き合いは続きました。
お互い家が近かったからかもしれません。



Kはお酒と麻雀が好きで、私と同じ趣味だったこともあり、
付き合い易かったです。
性格も温厚で人柄もとても良かったです。

Kとは良く2人でフリーの雀荘に通いました。
代々木の平和と巣鴨のアルファに行くことが多かったです。
代々木の平和は、「東京の九龍城」と言われる、今は無き代々木会館にありました。
1階に中華料理屋があって、チャーハンなど出前を取ることができました。
役満を上がると名前を書いた紙を貼ってくれて、
お店からご祝儀に瓶のコーラが振舞われました。

平和で麻雀をした後は、道を挟んだ向かいのビルの地下にある
ニュートーキョーという居酒屋で飲みました。
麻雀の話をしたり、お互いの近況を話したり、とても楽しい時間を過ごすことができました。

学生の頃は、学業(試験やレポートの提出など)や将来への不安(主に就職)はあったものの、
友人とお酒を飲んだり、競輪や麻雀といったギャンブルをしたりして
比較的ストレスも少なく、居心地の良い期間でした。
不安よりも楽しさが上回っていたのだと思います。



一方、Fとはそれ程交流はありませんでした。
2人で飲んだり、会ったりしたことはあるにはありますが、
回数はとても少なかったです。

KとFとは仲が良かったです。(今でも仲が良いようです)
共通した音楽の趣味(ヘビーメタル、デスメタル)があって
一緒にコンサートやライブに行っていました。
コンサートが終わってから、一緒に飲もうと誘われて、
彼らと合流して飲むことが多かったです。



3人で飲むのは、外よりも家でした。
学生でお金もそれほどなかったというのもありますが、
家で飲む方が落ち着きました。
私は大学時代の途中から一人暮らしを始めたので、
私の家で飲むか、Kの家で飲むかでした。

近くのコンビニで瓶ビール(ある時期からは缶ビール)、コロッケやハムカツなどのお惣菜、
スナック菓子、さきいかやいかの燻製などをつまみに買って帰りました。
一人2,000円ぐらいで飲むことができました。

大体、21時過ぎから飲み始めて、1時頃に解散することが多かったです。
それでも飲み足りないときは、24時間営業のコンビニに追加でお酒を買いに行きました。
このコンビニではKの兄が良く深夜アルバイトをしていました。
時々みんな酔潰れ、私の家に泊まっていくこともありました。

当時、Kの家にはお風呂が無かったので、
Kに付き合い3人で近くの銭湯に行ってから、家で飲むこともありました。
風呂上がりに飲むビールは最高でした。


こんな感じで、私が引っ越しのアルバイトを辞めてからも
2人とは定期的に会っていました。


その5 に続く

category: 友人

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最近感じていること  


最近は会社員時代のことや、昔の友人のことを書いているので
これまでに自分が生きてきたことを懐古することが多いです。


学生時代を振り返ると、勉学に励んだわけでも無く、
部活に熱をいれたわけでも無く、何かに打ち込むということは皆無でした。

麻雀や競輪といったギャンブルに明け暮れ、夜は友人と酒を飲み
ただ、何となく生きていました。
何も考えていなかったのだと思います。
それは無職である現在の自分とも重なります。


会社員時代は生活費を稼ぐためだけに生きていました。
仕事にやりがいを感じたことは全くありませんでした。
自分の時間を切り売りして、お金に換えただけの16年間でした。
とても残念な時間でしたが、そこでお金を稼いだがゆえに、
家を買ったり、投資資金を蓄えることができました。
無駄ではなかったと思いたいです。


トレーダーをやっていた5年間は充実していました。
誰からも指示されることなく、自分の裁量、判断で物事をすすめていくことは
自分にはあっていました。
稼いだ利益は全て自分のものです。
時には100万円/月を超える収入があったこともありました。
一方、数日で100万円を失うこともありました。
今考えると、頭がおかしくなりそうな世界でした。

専業トレーダーの駆け出しの頃は、株の怖さをしらなかったので、
知らぬ間に大きなリスクを取っていて、
資産のほとんどを株につぎ込んでいた時期もありました。
これは、とても怖ろしいことです。

もし何かがあったら(例えば、大地震などの自然災害やテロなどの戦争行為)
多くの資産を失ったかもしれません。
あまりにも無知だったので、できたことだと思います。

「利益は全て自分のもの」と最初に書きましたが、勝てなければ全て自分の責任です。
株は勝っている時は本当に楽しいのですが、負けてばかりいると嫌になります。
最後は精神的にかなりきつかったです。

株に縁の無い人からは、楽して儲けていると思われがちですが、
トレーダーほど精神的にきついものは無いと思います。

私の周りで長くやっている人は、頭のねじが一本、二本とんでいて、
大きな利益や損失に対して鈍感で、それでいてとても繊細な(矛盾していますが)
精神異常者のような人が多いです。
私はそんな人たちを相手にする世界で長くは戦えませんでした。



無職の今は自由で、毎日自分の好きなことをして過ごせます。
本を読んだり、将棋のTV対局を見たり、お酒を飲んだり。
会社員時代、あれほど望んでいた自由な生活も、
時間があり余り、暇を持て余し気味です。
とても贅沢な毎日を送っているはずなのに心が満たされず、
虚しさを感じる時があります。

今日もそんな1日でした。
そろそろ、何か仕事でも探した方が良いのか?と考えが過りました。
でも何をしたら良いのだろうか?



自分の人生を振り返ると、どうしようもない人生だったと思います。
その反面、大病もせず、貧困に苦しむこともなかったことを考えると
とても恵まれていたと思います。
こういった生活が当たり前と思っている自分を情けなく感じます。

ニュースで、台風10号の被害で約12万個の梨が廃棄となり、
3000万円以上の被害額が出たとやっていました。
また、新型コロナウイルスの影響で居酒屋の倒産が急増している
というのを見ました。

一生懸命やっても報われないことがあるのが人生なのですが、
そいうった人たちのことを考えると胸が痛みます。
そして、恵まれている自分に罪悪感を覚えます。


そろそろ何か仕事をした方が良いのかなと思ってしまいます。
お金のために働くのは嫌です。
人づきあいは苦手なので、一人でできる仕事が良いです。

私の高校時代の担任の先生は家庭科の先生で、定年後、
人形の洋服を作ってオークションで売っているという話を以前聞きました。
私も何か物を作って、それを売るような商売をしてみたいです。
人に買ってもらえるような魅力的な物を作るのは大変なんだろうけど。


私は定期的に、現状に対して不満を感じるようです。
(今までの人生を振り返ると、今が一番ストレスの無い楽な生活なのですが)
それが行き過ぎて、精神的に不調をきたす時もあります。

その不満をやり過ごしてしまえば、
また、無職ののんびりした生活に戻ります。

category: 無職・仕事

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今日1日  

昨日は23時前に寝ました。
最近は体調があまり良くなく、体がとても疲れます。
お酒も惰性で飲んでいる感じ。
昨晩は350mlの缶ビールを2本飲んで終わり。
全く私らしくないです。

8:30
今日は朝から雨が降ったり止んだりだったので、
妻を職場まで車で送りました。

11:00前、喫茶店で昼食
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ナポリタン 980円 (アイスコーヒー付き)
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抹茶のシフォンケーキ 640円

早い時間だったので、店内はガラガラでした。
学生やお年寄りがパラパラと。
静かで落ち着きました。


午後からは自宅で将棋の対局を見たり。
夕方、妻から仕事が終わったと電話があって、車で迎えに行きました。


夜は今日も惰性で飲みました。
あまり飲みたくは無いのだけど、何となく雰囲気で。
350mlの缶ビールを飲んで、焼酎25°を100ml飲んでいます。
追加で飲むか、止めておくか?


胃の調子が悪く、なんとなく元気が出ないので
補中益気湯(ホチュウエッキトウ)を昨日から飲み始めまています。
ツムラ41番

精神的に安定してきたので
抑肝散(ヨクカンサン)は止めました。
ツムラ54番

category: 夢職の日々202009

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中学時代の同級生の話 その3  


1990年。3人はぞれぞれの高校を卒業しました。
私は大学の機械工学科に進学し、
Kは志望する大学に合格できずに浪人し、
Fは映像系の専門学校に進学しました。

私は大学に入ってからは割の良いアルバイトをしたくて
派遣の家庭教師をはじめました。
時給は2,300円。
当時はバブル経済真っ只中で、お金が余っていたのだと思います。
破格の時給でした。

六本木では、タクシーを拾うために万札をひらひらさせて手を振っても
全く捕まらなかったそうです。
1985年、ドル高是正のため先進5か国が合意した「プラザ合意」により
金余りが生じたのです。

私の家庭教師の派遣元の本業は不動産業でしたが、
経営の多角化の一環として家庭教師の派遣業務を始めたようです。

平日、大学が終わった後、1日2時間働いて4,600円でした。
エアコンの効いた部屋で子供に勉強を教え、おやつも出してもらえました。
引っ越しの仕事は、外で1日肉体労度をして6,500円。
そんなこともあって、私は引っ越しのバイトからは遠ざかるようになりました。



大学時代には色々なアルバイトしました。
ハンバーガーショップ、喫茶店(2軒)、パン屋、プリンターメーカーの耐久試験、
塾講師、その他にもあったかもしれません。
どれも2~3年程で辞めてしまいましたが、
この家庭教師だけは大学院を卒業するまでの6年間(1990年~1996年)続けました。

しかし、1993年初め頃よりバブル崩壊が本格化し、
家庭教師派遣元の会社の本業である不動産業の業績も悪化。
途中、アルバイト料の振り込みが遅れる事態になりました。
多くのアルバイトが辞めていき、バイト料が支払われないまま泣き寝入りしていたようです。
社員も相当数いなくなりました。
ごっぞりと、同業他社に転職したという話も聞きました。


私は教えている生徒さんが中学受験を控えていたこともあって、
途中で仕事を投げ出すことができず、バイト料が支払わるか不安なまま、
仕事を続けました。

詳細を書くと、それだけで1時間ぐらい語ることができるのですが、
私は単身で本社に乗り込み、専務と交渉をしました。

専務はバイト料をいついつまでに振り込むと調子の良いことを言い、
それを信じて待つのですが、振り込みの日に通帳を確認するも振り込まれていない。
頭に血がカーッと上り、電話をすると専務が出て、
「どうなっているのですか?これからそちらに話を伺いに行きます」と言い
会社に行くと、専務はどこかに行ってしまいいなくなっている。

そんな感じで、何度も嘘をつかれ騙されはしたもの
1年遅れぐらいでバイト料は全て回収しました。
専務に「あんたはしぶとい、負けたよ」と言われたのを覚えています。
私はお金に対する執着心が人一倍強いのです。

最終的に本社は倒産し、家庭教師派遣業は別会社として存続。
その後は、バイト料もきちんと支払われるようになり、
最後まで仕事を続けることができました。

当時は経済のことは全く分かりませんでしたが、
今思うと、あの時の不動産業は大変だったと思います。
私に支払う月数万円のお金すら、本当になかったのだと思います。


すみません、私の学生時代の思い出話ばかりになってしまい、
また本題から逸れてしまいました。
次回こそは、KとFの話に戻ります。


その4 に続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その2  


少し横道にそれますが、アルバイトの事も書いておきます。
私が高校生だった時(1987年~1990年)
その引っ越しのアルバイトは日給6,000円でした。
高校を卒業した後、500円値上げされたように思います。
同じ高校でマクドナルドでアルバイトをしていた友人がいましたが、
彼の時給は580円でした。



引っ越しの仕事は当たり外れがあって、
家族の引っ越しだと荷物が多く、更に搬出、搬入があると1日仕事になります。
18:00を過ぎると残業になり、きちんと残業代は支払われました。

しかし、単身世帯の搬出のみの仕事だと、午前中に仕事が終わり
そこで解散になりますが、1日分の日給がもらえました。
午後からは自由になるので、遊びに行ったりしていました。



引っ越しの仕事では、ご祝儀を頂くことがありました。
1,000円のことが多かったですが、時々3,000円ぐらい頂くことがあって、
その時は嬉しかったです。

ご祝儀は、依頼主の方が作業員個別に渡してくれる時もありますが、
責任者に「みなさんで」と一括して渡す時もあります。
その時は、責任者(トラックのドライバー)が私たちアルバイトに均等に配分してくれました。

しかし、引っ越しシーズンの繁忙期は、
プロパー(その会社の正社員)ではない、フリー(委託)のドラーバーの時もあり、
フリーのドライバーの中には、ご祝儀を全て自分の懐に入れてしまう人がいました。
そのドライバーとの仕事は嫌でした。



引っ越しの作業では昼を挟む時があり、
出前などの昼食が振舞われることが時々ありました。
そばや丼物が多かったですが、寿司などもありました。
学生時代でお金も無く外食などできなかったので、そういった時は嬉しかったです。

搬入、搬出の仕事の時は移動がありました。
トラックの助手席は見通しが良く、乗って楽しかったです。
しかし、しばらくすると眠くなり、起きているのが辛かったです。

移動の途中に昼食をとることも多かったです。
ラーメンショップとか、山田うどんに行った記憶があります。
ですから、先日、小野路を歩いたときに立ち寄った
ラーメンショップは懐かしさを感じました。
無職日記 六月二十四日


ビールや飲料の箱詰め作業は最悪でした。
ずっと立ちっぱなしで、ひたすら缶飲料を箱に詰める。

パートの女性などもいて、総勢10人~20人ぐらいで
工場の一角の部屋で作業していました。
夏は冷房も無くて汗だくなりながらやっていたので、とても辛かったです。
この仕事の時は、嫌で何度か断った記憶があります。


その3 へ続く

category: 友人

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中学時代の同級生の話 その1  

JINJINMANさんから、崎陽軒のシウマイの思い出 のコメントで
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Kさんのとの思い出話も知りたいけど、Fとの絶縁は何があったのかも知りたいです。
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と頂いたので、中学時代の友人の話をしばらく書くことにしました。

酒癖の悪いFとは絶縁したので、
苦労人であるKとのことだけ書こうと思いましたが、
リクエストがありましたので2人のことを書きます。



KとFとは中学3年の時に同じクラスの同級生でした。
私のクラスはみんな仲が良くて、とてもまとまっていた思います。
でも私は、仲の良いみんなの輪に入れませんでした。
決して仲間外れにされていたわけではなく、
むしろ、気にかけてくれて誘ってもらったりしていました。
でも、一人でいる方が気が楽でした。
みんなと一緒にいることは苦痛に感じました。

私は41歳の時に自閉症スペクトラム障害であることが分かりました。
今になり、中学時代に友人の輪の中に入れなかったこと、
一人でいる方が楽だったことの説明がつくようになりました。

そんな感じで、KとFとは中学時代特別に親しかったわけではありませんでした。




中学を卒業して、K、Fとは別々の高校に進学しました。

私は高校に入ってから、遊ぶお金欲しさにアルバイトをすることにしました。
教育熱心だった両親にアルバイトをしたいと相談したら
予想通り猛反対されたので、親には内緒でアルバイトを探しました。

平日の決まった時間にアルバイトをすると親にバレてしまうので、
休みの日にできる仕事を探しました。
丁度、同じ高校に通うIが、ビールメーカーの配送部門で、
日曜日にできるアルバイトを始めたので、私も紹介してもらいました。

このビールメーカーの配送部門でのアルバイトの仕事は
休日の引っ越し作業や、お中元、お歳暮シーズンの
贈答用ビールの箱詰め作業でした。
ビールの配達自体は平日が中心だったのでありませんでした。




そんな仕事をしばらくしているうちに、
どこでどんな風に話が伝わったのか覚えていないのですが、
中学時代の同級生だったKとFも、そのバイトをしたいと言い、紹介することになりました。

引っ越しの仕事は現地集合、現地解散でした。
多くの現場は、トラックのドライバーが一人いて
他にアルバイトの作業員が2~3人いました。
だから時々、KやFと現場が一緒になることがありました。

現場が一緒になると、仕事が終わってから、私の家や
Kの家に行って酒盛りをしました。
Kには3歳離れた兄がいて、たまにKの兄に誘われて
Kの家の近くの焼肉屋へ行ったりもしました。

人付き合いが苦手な私でしたが、
なんとなく、K、Fとはストレスなく付き合っていたと思います。


その2 に続く

category: 友人

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近況  

ここ数日は元気が出ません。
直ぐに疲れてしまい、夕方になるとぐったりとしてしまいます。

夜もお酒を飲もうと思いつつも、飲む気力すら起こらないような状態です。
昨晩も夕飯をを食べて、その後は布団でゴロゴロとしていました。
夏の暑さの疲れが蓄積されてきたような感じです。夏バテ?
精神面は安定しているので救われています。


今日は昼過ぎから妻と下の子と買い物に行きました。
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ロースとヒレかつの合盛り 1,580円

昼食後はスーパーへ買い物に行きましたが、体が動かず。
車で休んでいようかと思ったぐらいでした。

夕方帰宅して、それからすぐに図書館へ。
返却期限が昨日までだった本を返してきました。


今日も夕方になると疲れ切ってしまい気力が湧いてきません。
食欲もあるし、どこかが痛んだり、調子が悪いことは無いのですが、
とにかく疲れます。

今日もお酒を飲めるかどうか微妙です。

category: 夢職の日々202009

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今日1日  

昨晩は缶ビール(350ml)を飲んで、焼酎25°(100ml)の梅割りを飲んで、
0:00前に寝ました。

最近は、これまで飲んでいた量のお酒が飲めなくなりました。
(標準は、缶ビール350mlを飲んだ後、焼酎25°を300ml)
程ほどにしているので、翌日にお酒が残らず、目覚めは良いです。



6:00起床
目は覚めていたものの布団から出れずゴロゴロして、
布団を出たのは7:45でした。

昨晩から天気が悪く、今朝も曇りがち。
そのせいかとても涼しくて快適です。

今日は天気が1日悪そうなので、洗濯物はベランダに干さず
室内干しにして乾燥機をかけました。
数日前までは、朝から炎天下の中
2階のベランダで汗だくになって干していました。
その事を考えると、とても楽です。

午前中は何もせず。
ぼーっとして過ごしました。

11:00
何もすることが無く時間を持て余していたので、
早めに昼食を食べに行くことに。
ラーメンかカレーライスを食べたくて、迷った挙句カレーを食べに行くことに。
久し振りにジャズの流れる喫茶店に行きました。
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カツカレー アイスコーヒー付きで 1,190円
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食後にプリン・ア・ラ・モード 490円

食事が終わったら帰るつもりでしたが、そこそこ居心地の良い喫茶店で
だらだらとパソコンをしています。
本も持って来れば良かったと後悔。


ブログの更新もして、そろそろ飽きてきたので家に帰ります。

category: 夢職の日々202009

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