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夢職ひきこもりの日々

40歳で鬱で職を失いました。2014年1月~2018年10月までトレードで生活費を稼いでいましたが、稼げなくなり完全に夢職なりました。酒場巡りをライフワークとするアル中予備軍。無業期間が長くなりすぎ再就職はあきらめました。

中学時代の同級生の話 その6  


20歳当時のK、Fのことを書いたので、私のことも少し書いておきます。

大学2年に入ってからの私の生活はかなり荒れていました。
引っ越しのアルバイトは辞め、家庭教師のアルバイトと掛け持ちで、
ハンバーガーショップでのアルバイトを新たに始めました。
そこで出会ったNと意気投合して、毎日よのうに遊んでいました。

Nは私より3歳年下で、出会った当時彼は17歳でした。
岐阜県出身で、高校を中退して東京に働きに出てきました。
高校を中退した理由は、朝起きることができず学校に行けなかったからだそうです。

Nは東京に住んでいる叔父と同居していました。
当初は喫茶店で働いていましたが、喫茶店を辞めて
私と同じハンバーガーショップでアルバイトを始めました。



Nと馬があったのは、彼もギャンブルとお酒が好きだったからです。
(中学時代の友人Kと同じです)

ハンバーガーショップのアルバイトは23時までで、その後は
彼と2人で飲みに行くか、バイトのメンバーと麻雀に行くかでした。
バイト先の店長も麻雀が好きで、時には店長を交えて麻雀をしました。

また、社員がいない時は、バイトが終わった後コンビニにお酒を買いに行き、
店内の客席でおいちょかぶ大会が開帳され、
深夜の客のいない店内に「クッピーン」「シッピーン」といった声が響き渡っていました。
花札なんかもやった記憶があります。

今思うと、あのバイトは店長を始め、みんなギャンブル好きで狂っていました。
例えギャンブルに興味が無くても、みんな巻き込まれていたように思います。
新しいバイトが入ってきて、麻雀やおいちょかぶを知らないというと、
直ぐに教育してメンバーに育て上げていました。
流石に女の子たちは麻雀はしませんでしたが、おいちょかぶや花札は普通にやっていました。
(ルールが簡単なので、すぐに覚えられたこともある)
当時はインターネットも普及していおらず、娯楽も少なかったからかもしれませんが
みんなギャンブルにのめり込んでいました。

あのアルバイトは、私の経験したバイトので一番楽しかったですが、
店長をはじめとするメンバーや、職場環境はかなり特殊だったと思います。
あんなハンバーガーショップは無いと思われます。



通っていた大学は週6日ありました。
家庭教師のアルバイトは週2日、ハンバーガーショップでのアルバイトが週3日
ハンバーガーショップのアルバイトは授業が終わて、夕方頃から23時まで働いていました。
Nはフリーターなのでほぼ毎日14時から23時まで働いていており、
私が働くときは、だいたい閉店まで一緒でした。
閉店後は、彼と一緒に夕飯を食べに行くか、アルバイトのメンバーを誘って麻雀にいくかでした。
真っ直ぐ家に帰ることはまずありませんでした。

夕飯は、店の近くにつけ麺大王という中華料理屋があり、
そこでラーメン、麻婆豆腐定食、天津丼を良く食べました。
それからコンビニでお酒を買って、公園で飲みました。
後にNは叔父さんの家を出て、一人暮らしするようになったので、
彼の家で飲むこともありました。


麻雀は場代が安い蒲田(大田区)まで電車に乗って行きました。
場代は学生で1時間200円でした。
バイトが終わってからなので、終電近くで蒲田まで行って、
始発が動き始める頃に解散しました。

私は家に帰ることなく、そのまま大学へ行き、教室の一番後ろの席でいつも寝ていました。
大学にはシャワーがあったので、空き時間にシャワーを浴び、
授業が終わるとそのままアルバイトへ行きました。
時々家に帰りましたが、着替えるだけでした。

それに加えて、競輪も大好きだったので、
川崎、花月園競輪が開催されるときは3日間開催のうち1日は行っていました。
記念競輪の時は2日行くこともありました。

このように、大学2年時は毎日忙しく、
大学にいるか(寝て、シャワーを浴びる場所)、バイトをしているか、
麻雀などのギャンブルをしているか、競輪場にいるか、お酒を飲んでいるか
というような荒れた生活を送り続け、勉強は全くしなかったので
成績はガタ落ちになり留年の危機に陥りました。

流石の私もこのままではまずいと思い、大学3年になるのを機に、
断腸の思いでハンバーガーショップのアルバイトを辞めることにしました。
とても残念でしたが、背に腹は代えられませんでした。



バイトを辞めてからもNとの交流は続いて、彼の岐阜にある実家に遊びに行ったりもしました。
彼の両親もギャンブル好きで、一緒に麻雀をしたり、
豊橋競輪場の開設記念に連れて行ってもらったり、
とても良い思い出になっています。

Nとは酒を飲みながらこれからのお互いの人生について良く語り合いました。
Nは高校中退で、学歴は中卒だったので、
「自分は乞食になるか大金持ちになるかのどちらかの道しかない」
といったことを良く言っていました。

その後彼は、パチンコ屋の店員、歌舞伎町でホスト、芸能事務所のマネージャーなどを経て、
最終的には芸能プロダクションを興しました。
私が就職してしばらく経った2000年頃には、渋谷で家賃50万円のマンションに住んでいて、
私とは別世界に行ってしまったようで、とても寂しい気持ちになりました。

彼が会社を興したばかりの時は経理の明るい人間がおらず、
私が数字に得意だったこともあって、一緒に仕事をしようと誘われましたが、
右も左も分からない芸能関係の仕事に人生を捧げる勇気も無く断りました。


私が30歳ぐらいになるまでは、彼と年賀状の交換をしたりと交流は続いていましたが、
今はどこで何をしているのか全く分かりません。
もう一度会ってみたい友達の一人です。


その7に つづく
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中学時代の同級生の話 その5  


3人では家で飲むことが多く、冬になると鍋やおでんをしました。
男3人でスーパーに野菜や肉、酒を買いに行き、
実家から電気グリル鍋を借りてきて鍋を作りました。

当時、冬季節限定のビールの出始めた頃で、
鍋の時はみんなで「サッポロの冬物語」を飲んだことを覚えています。

3人ともビールを好んで飲みました。
Kはキリンが好きで、ラガーや一番搾りを飲んでいました。
Fはアサヒのドライが好きでした。
Kの兄はサッポロの黒ラベル。

私はアサヒのZが好きでした。
あとは、ハイネケンやクアーズといった外国産ビールを飲んでいました。
当時は外国産ビールは350ml缶が200円ぐらいで売っていて
国産ビールよりも安かった記憶があります。
発泡酒は無かった時代です。



20歳ぐらいの時の冬だった思います。
いつものように鍋をしようという話になった時、
Kが連れてきたい人がいると言いました。

当日、Kが連れてきたのは、とても可愛い女の子でした。
付き合い始めた彼女だと紹介されました。
高校時代の同級生で、卒業後のクラス会で再会して、
付き合いが始まったそうです。

私はというと、付き合った女性は何人かいましたが、
3か月ほどで女性の方からことごとく振られて上手く行きませんでした。
結婚願望は昔から強かったのですが、
私は恋愛には向かなさそうなので、この先ずっと一人で生きていくのだろうなと
ぼんやりと考えていたところでした。

そんな中で、Kがとてもかわいい彼女を連れてきたので、
嫉妬すると同時に、激しい劣等感に襲われたことを覚えています。



3人が高校を卒業して2年が経った1992年4月
Kは2浪するも夢が叶わず、進学を諦めることになりました。
浪人時代も続けていた引っ越しのアルバイトを本業とし、
「フリーター」として生計を立てることになりました。

1990年代前半はまだバブル景気中で、仕事はいくらでもありました。
リクルート社が発行する求人誌「FromA」はバブル景気を受け、
求人広告増加に対応させるため、1989年春から毎週金曜日発売となる「From A to Z」
が創刊され、週2回の発行となりました。
(Wikipediaより)

また、1980年代後半から「フリーター」という言葉が生まれ、
アルバイトで生計を立てつつ、会社に縛られず自由な生き方をするといった
新しい生活スタイルも確立されつつありました。

Kには2歳上の兄がいましたが、彼もコンビニエンスストアの深夜のアルバイトと
ビル清掃のアルバイトをしつつ、生活していました。
当時は沢山仕事があり、時給もそれなりに良かったように思います。



一方、Fは映像関係の専門学校を卒業後、撮影スタジオの職を得ました。
スタジオではCM撮影などをするカメラマンの見習いとして働いていたようです。
入社したてのころは、年配のスタッフに小言を言われたり説教をされることを嘆いていました。

カメラ、ライトなどの重い機材を扱うことも多く、重労働だったようですが、
引っ越しのアルバイトで体を鍛えていたので、
何とかついていけると言っていました。

彼は2年ほどそのスタジオで下積みを積んだ後、大きな会社に転職し、
今はフリーのカメラマンになっているようです。


その6 につづく

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